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2017.01.13 Friday

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    Supercar解散に関して

    2005.01.18 Tuesday

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      Supercar解散

      僕がSupercarのアルバムで初めて買う気になれなかった5thアルバムの出来から考えると、やっぱりそうかという感じは否めませんが、Supercarの解散は日本のポップミュージックシーンのエポックメイキングたる事件だと思います。


      1st スリーアウトチェンジ

      NUMBER GIRLが解散しても、Pre-Schoolが解散しても、ブランキーが解散しても、イエモンが解散しても、椎名林檎や中村一義がバンドを始めても、Coccoが沖縄に帰っても、くるりからメンバーが一人抜け、別のメンバーが一人入り、さらに外人が加わったかと思ったらすぐに抜けてしまっても、正直特に感慨もなく、まあしょうがないという感じでした。
      ミッシェルが解散のときはちょっとへこみましたが、ラストアルバムを聴くと、まあ寿命をまっとうしての大往生だなと納得するところがありました。


      2nd JUMP UP

      しかし、Supercar解散に関しては、5thアルバムがちっとも良くなかったのに、何故か残念でしょうがありません。

      彼らが衝撃的なデビューを果たしたとき、僕はまだ大学生で、東京に住んで1年ぐらいでした。Supercarも僕とほぼ同じくらいの年で、しかも青森出身ということで同じ東北人として勝手に親近感を感じたことが思い出されます。

      Supercarの1stアルバムの何がすごかったかというと、洋楽っぽいというかまさに洋楽だった所だったことだと思います。洋楽なんだけど、明らかに日本語だし、日本人の顔で、日本人の声でした。邦楽なのに歌詞カードに田中宗一郎と山崎洋一郎の解説文が載っていて、全曲のコード進行が載っていました。


      3rd Futurama

      歌も上手くなければ、演奏もへたくそ、でもセンスだけがとてつもなく素晴らしい。そして歌詞が何だか知らないが新しい。サウンドがまんまジザメリで、マイブラで、ライドで、オアシスなのに何にも似ていない。
      Supercarの登場で、日本のアマチュアバンドの一割ぐらいがSupercarのパクリバンドになってしまったのでは無いかと思うほど彼らのスタイルは真似したくなる存在でした。

      いわゆるメジャーな音楽に興味が持てない(僕はサザンとか好きでしたからそこまででも無かったです。ラルクとか好きだったし)文系ロック少年少女達は、Supercarがメジャーなシーンで成功を収めたことで、自分のセンスが肯定されたようなそんな気持ちになっていたのかも知れません。


      4th HIGHVISION

      アルバムの完成度は個人的に4thの『Highvision』が、悟りきったような感じで一つの到達点だと感じましたが、2thの『jump up』に最も思い入れがあります。一曲目の「Walk Slowly」にどれだけ興奮したことか。

      最後のアルバムは確かに良くないけど、シングルの「Last scene」はかなり良かったし、5枚もアルバム出してればそりゃ一枚くらいちっとも良くないものがあっても良いでしょう。まだ、彼ら4人でできることはたくさんあったのでは無いでしょうか。
      ミッシェルのような、全てを出し尽くしての解散とは意味合いが大分異なるのでは無いかと思うのです。

      Supercarの曲で多分最も人気のあるであろう「Lucky」という男女ツインボーカルのデュエット曲は未だに新鮮さを失っていません。いわゆる六本木、赤坂等でカラオケで歌われるような男女デュエット曲は、2人の男女が常に見つめ合いながら歌うような曲です。

      でも、「Lucky」という曲で、二人の恋人の視線は最後まで交わることはありません。2人は見つめ合うようなことはしなくても、同じ空を見ていたのかも知れません。
      この曲のような胸キュンの歌詞はセカンドアルバム以降は影を潜めていきましたが、僕はやはりこの曲の歌詞が大好きなのです。


      THE BEST OF WINO-Volume 1

      もう一つ、僕が解散を惜しんだバンドは、WINOというバンドでした。一番最後のライブは結構グッときたなあ。でもやっぱりちょっとださすぎたかなあ。
      こうして考えると日本のバンドというかミュージシャンはやっぱり短命です。

      『One Of Us』という曲に関して

      2004.12.27 Monday

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        毎月購読している『選択』という雑誌に興味深い記事が載っていた。


        『選択』

        それは、「キリスト教原理主義」についての記事であった。
        その記事ではまず米国で6,200万部を売り上げた連作小説について触れていた。

        『レフト・ビハインド』というSF小説の筋書きは、まさにキリスト教原理主義に基づいた筋書きであり、核心にあるのは「世の終わり」「最終戦争(ハルマゲドン)」「アンチキリスト(悪魔の代理)」「キリスト再臨」「ラプチャー(携挙)」等の概念である。小説世界では、悪魔の手先である国連事務総長のカルパティアという人物が世界支配の陰謀を進め、世界は混乱し戦乱の果て、数十億人が死に、最後にはキリストが再臨し、悪の軍勢を打ち倒す・・・と言った、日本人の僕らからするとなんとも知能指数の低い物語であるのだが、これが大ベストセラーとなったのである。

        キリスト教原理主義の教義では、近い将来善と悪の最終戦争が起こり、神の軍勢が勝利しキリストが再臨する。そして一千年にわたりキリストが、真のキリスト教徒とともに世界の支配する。真のキリスト教徒は、最終戦争の直前に天に引き上げられ(ラプチャー(携挙))、キリストと出会い大半の人類が死滅するであろう最終戦争をキリストの傍らで見守るので、彼ら自身が犠牲となることは無い。
        記事によると、米国人の17%が「自分の生きている間に世の終わりが来る」と信じ、31%が「聖書の記述はすべて神から霊感を得て書かれた真実」と見なす。その中で、政治的に関わろうという人々が原理主義者である。

        原理主義者ほど、過激な選民思想に基づかないかも知れないが、その周囲には福音派と呼ばれる、あるとき自分はキリスト教徒として新たに生まれ変わったと信じる層が存在しており、40歳でキリストに目覚め、アルコール依存症を克服したブッシュ大統領はこの福音派にあたる。
        これらプロテスタントの原理主義者や福音派に加え、カトリックやユダヤ教の保守派も加えたのが、ちまたでよく耳にする「キリスト教右派」である。


        『永遠のモータウン』

        これらの話とは関係ないが、『永遠のモータウン』という音楽ドキュメンタリーで僕は昔好きだった懐かしい女性シンガーを発見した。
        彼女の名前はジョーン・オズボーン(Joan Osborn)。シンガーソングライターで、ブルース、R&B色の強い、土着的で渋い曲を歌っていた。95年のアルバム『Relish』がヒットして、僕もそこそこ聴いていたが、当時高校生の僕にとっては少しばかり渋味の強い音楽ではあった。『Relish』に収録された『one of us』というシングル曲が当時大ヒットしており、仙台にいた僕にも、数少ない洋楽番組を観る度、かなり長い期間チャートの上位にあったので、とても印象に残っている。その後、彼女の名前をあまり耳にしなくなっていたので、いわゆる一発屋のイメージを抱いていた。

        この『one of us』という曲はとにかくメロディやアレンジ等サウンドそのものが素晴らしく、それこそビートルズでもクラプトンでも何でも良いがそうした先達の残した名曲に匹敵するようなポップス史に残る大傑作だと思っている。(プリンスが名無しで活動している頃の3枚組アルバムの中でカヴァーを披露していた。)


        『Relish』

        しかし、今になって聴いてみるとこの曲は歌詞がかなり凄い。下に丸まる引用してみたいと思う。

        If God had a name what would it be?
        And would you call it to his face?
        If you were faced with Him in all His glory
        What would you ask if you had just one question?

        もし神様に名前があったらどんな名前でしょう?
        面と向かったら何が言えるのかしら
        光栄なる神様に出会えて
        一つだけ質問ができるのなら何を聞こうかしら

        And yeah, yeah, God is great
        Yeah, yeah, God is good
        yeah yeah yeah yeah yeah

        ああ、ああ、神様って素晴らしい
        ああ、ああ、神様って立派だわ

        What if God was one of us?
        Just a slob like one of us
        Just a stranger on the bus
        Tryin' to make his way home?

        もし神様が私たちの中の一人だったらどうしましょう
        私たちの一人のように怠け者だったら
        バスに乗っている見知らぬ人や
        家に帰ろうとしている人だったらどうしましょう

        If God had a face what would it look like?
        And would you want to see if, seeing meant
        That you would have to believe in things like heaven
        And in Jesus and the saints, and all the prophets?

        もし神様に顔があるのならどういう顔なのでしょう
        見たいと思います?見ることに意味があるなら
        それは天国があることを信じるのと同じように
        そしてジーザスやセイント、全ての予言者を信じるのと同じように

        What if God was one of us?
        Just a slob like one of us
        Just a stranger on the bus
        Tryin' to make his way home?
        Like a holy rolling stone
        Back up to heaven all alone
        Nobody calling on the phone
        'Cept for the Pope maybe in Rome

        もし神様が私たちの中の一人だったらどうでしょう
        私たちの一人のように怠け者だったら
        バスに乗っている見知らぬ人や
        家に帰ろうとしている人だったらどうでしょう
        家を転々としている聖なる人だったら
        一人天国に帰るところなのかも
        誰にも電話はかけられないしね
        でもローマ法王には電話しているかも



        まあ、西洋音楽であれば良くありそうな歌詞であることはあるのだが、これがチャートで一位をとってしまうお国柄というものに改めて驚いてしまうのだ。「神様お願い!」とかそんな軽いタッチではなく、まじめに「神はなんちゃらかんちゃら」などとという歌が、「Mステ」や「HEY HEY HEY」なんかで流れていたらと思うと、無宗教の国民からしてみるとかなり異常なことである。○○学会員のミュージシャンであってもなかなかこんな曲は歌っていないようにも思える。
        『one of us』の歌詞は原理主義とも何の関係も無い、むしろ神の存在に対する疑問を投げかけているようにも思えるし、異宗教間の不毛な争いに対する言及にも思える。しかし、大半の米国人はそのような意図とは反対に、この曲を讃美歌の一種として捉えたのでは無いかと思うのだ。
        外部から傍観している限りでは何故、ブッシュが当選するのか全く理由がわからない。不用意に『華氏911』などを観てしまうとなおさらそう感じてしまう。しかし、実際僕らが知ってるアメリカは、文化的な側面ばかりで、それらの大半がNYやLAといった大都市で作られたものであり、アメリカの一部に過ぎないのだろう。今だってアメリカ人はカントリーミュージックを好み、同性愛者間の結婚も中絶も認めたくはない保守派が大半を占めているのだという事実がブッシュ再選で改めて浮き彫りになったのだとも思う。


        始めに紹介した『レフト・ビハインド』の映画版

        日本に住んでいる限りあんまり縁の無さそうなことかと思い込んでいたが、それでも宗教的というか全体主義的な空気はポップスの世界にも入り込んでいるようにも思える。
        例えば、以前大ヒットしたSMAPの『世界にひとつだけの花』。あれは一応ひとりひとりが違うんだからそれを認め合って生きていこうよ的な個人主義に基づいているのかも知れないが、僕はあの曲から漂う、新興宗教的な価値観や、音楽業界が不況のさなか空前の大ヒットを飛ばしたことにかなり気持ち悪いもの感じていたことを思い出した。「セカチュー」や「冬ソナ」といったように業界全体が盛り上がるというより、単品で局地的に大ヒットが生まれるという昨今の傾向からも、それに乗れないマイノリティを排除しようという空気が蔓延しているようにも思える。「私が私が〜」とひたすら個人の内面(のようなもの)を歌っていた浜崎あゆみは今年は全く存在感が無かったとも思う。(なんかの曲で、「ハイルヒットラー!」というナチスの敬礼のポーズに近いものを振り付けに取り入れていたのが気持ち悪かった)

        カリスマカリスマとバカの一つ覚えのように安上がりの言葉が使われていたこと、「バカの壁」というベストセラーでは、話の通じない人(バカ)に何を言っても無駄というようなことが言われていたこと、マツケンサンバやお笑いブームでシリアスな問題はさっさと忘れてしまおうという風潮、とどまることを知らない学生の基礎学力の低下、何者かわからないが、無理矢理僕らを一つの価値観にまとめてしまおうという巨大な意志が働いているように思えて気持ち悪い。
        しかし、その一方でそうしたブームに乗ってしまう気持ちよさもあり、それこそが新種のドラッグのようにも思える。「自己責任」か何か知らないが、ボランティア精神からイラクに行って殺される日本人を国民総出で「バカ」と言い放ってしまうことにも恐ろしさを感じつつ、5分ぐらいでカタが付くなら、核でも何でも落として、北朝鮮という国を抹殺してくれないかとも考えてしまう矛盾する思いも感じている。

        このようなまとまりの無い社会状況に陥ったときに自ら考えることを放棄させてくれる、宗教やそれに近い何モノかは非常に魅力的に思えるのかも知れない。
        世界最大にして最強の宗教国家アメリカ合衆国に追従していく限り日本の宗教国家化は必然的に進むだろうし、それに変わる新たな道も見つからない。宗教国家となることがいいことなのか悪いことなのかもよくわからない。

        ただ、今年このブログというものが一大ブームとなり、新たなメディアとしての可能性も秘めるツールとなった。この先、どこかの宗教団体がブログの有用性に気づき、信者を総動員してしまえば、グーグルで何を検索しても最初の方にやってくるのは、どこぞの信者の書いたブログの記事、という可能性も無くは無い。いつの間にやら特定の集団の考えが標準となりうる時代が来るかも知れないし、もうやってきてるのかも知れない。

        (また長くなりすぎました。いつにも増して散らかってしまい、全然まとまりませんでした。『one of us』という曲がものすごい名曲だということを訴えたかったんですが・・・)

        最近借りてきたJ-POPシングル

        2004.11.11 Thursday

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          iPodも復活したので、TSUTAYAの半額SALEでたっくさんCDを借りちゃってます。一緒に気になってたシングルもいくつか借りちゃいました。


          木村カエラ 『happiness!!』
          テレビ神奈川の人気番組「saku saku」でおなじみのセブンティーンモデル木村カエラちゃんのセカンドシングルです。ファーストシングルの『Level42』は、90年代のオルタナティブロック風味の地味な曲でちょいとどうなの?と思いましたが、セカンドは一転してPOPなロックナンバーになってました。
          アブリル・ラヴィーンを筆頭としたボーイッシュでかわいい女の子が歌う、ちょいと硬派かつポップなロックという感じの路線です。黒髪で、お目めパッチリ美人で、個人的にはMTVの人気番組でおなじみのアシュリー・シンプソンあたりを意識しているかのようにも思います。
          スカートよりジーンズ。女の子よりは男の子とつるむ方が好き、というようなシズカちゃん的な女の子(シズカちゃんは常にスカートですが)は、文系ロック好き青年のツボを見事にとらえていると思います。椎名林檎には憧れつつも、ちょっと気が引けて、Aikoや鬼束ちひろが好きで、セックスをたくさんこなすことにあんまり価値を見いださないような男子諸君が熱狂しそうな感じです。彼女はジワジワと売れてきそうな予感がします。曲もいいし。歌声も気持ちいい。


          ユウジ・オダ・ウィズ・ブッチ・ウォーカー  『Last Christmas/Wake Me Up GO!GO!』
          ドラマで聞いてるとそれなりによいのですが、よくよく聞いてみるとワムのオリジナルには全然かないませんでした。若干ロック風味のアレンジはまだよいとしても、オリジナルの『ラストクリスマス』になみなみならぬ愛情を持っていた者から言わせると「一番大事な部分のメロディをいじりやがったなこの野郎」という感じです。
          でも、ドラマは最高です。


          後浦なつみ 『恋愛戦隊シツレンジャー』
          昨年(だったでしょうか?)の”ごまっとう”に続いてまたしてもハズしてしまいました。まさにこれで、フグと毛ガニと伊勢エビを鍋に入れても決して最高の味にならないということが証明されたと思います。メンツとして申し分ないはずなのに何故かブレイクしないそのB級感は何なのでしょう?僕が思うに、ナッチやあややの持つパワーより、後藤真希から醸し出される負、というか陰の力が勝ってしまうのではないではないかと思うのです。ナッチはともかくとして、あややにとってはこのユニット活動はマイナスにしかなってないというのがすごいです。
          楽曲についてはコンプレッサーをかけまくったような圧縮された音質に、着うた時代を象徴するもの感じてしまいます。下手に良質な再生装置で聞いてしまうと音が痛すぎるので携帯電話のスピーカーで聞くぐらいが一番ちょうどいいように制作されている楽曲なのではないでしょうか。


          東京事変 『遭難』
          椎名林檎率いる東京事変ですが、このセカンドシングルのカップリングの『心』という曲がよかったです。椎名林檎名義での3枚目のアルバムで行き着くところにいってしまったあと、少し時間を戻して、ファーストアルバムを彷彿とさせるような出来映えです。保守的な林檎ファンとしては素直にうれしい限りです。離れてしまったであろう、『ギプス』の歌詞に登場したカートにもコートニーにも興味が無いようなお姉様ファン方にも納得の一曲であろうかと思います。ジャズやボッサやハウスやトランスと言ったお洒落な音楽にはどうしても馴染めなかったロック好きにも若干のお洒落気分を味あわせてくれたところが椎名林檎最大の魅力と感じていたので、東京事変、非常に良いと思います。飽きるほど聴いた『無罪モラトリアム』また聴いてみたくなりました。


          Salyu  『Dialogue』
          かつて岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』における架空のミュージシャン、リリィ・シュシュとして小林武史プロデュースの元デビューしたSalyuは現在最も素晴らしい女性ボーカリストでしょう。ファーストシングルの『Valon』は小林武史最高傑作なのではないかというほど浮遊感、高揚感、希望に満ちあふれた楽曲で何回聴いても飽きることはありません。セカンドシングルであるこの『Dialogue』はサビの部分(転調しているのでしょうか?)の気持ち悪さが妙に心地よいというファースト以上に不思議な曲です。この気持ち悪さはBUMP OF CHIKENの『ハルジオン』を思い出しました。
          中島美嘉が守りに入ってきた現在、個人的に最もファーストアルバムが待ち望まれるミュージシャンです。


          W-inds  『四季』
          多分僕が今年聞いたJ−POPシングルの中ではナンバー1です。W-indsなめてました。というか興味が全くありませんでした。この先もほかの曲をチェックしてみようとは思いませんが、『四季』という曲に関しては素晴らしいと言わざるを得ません。
          1番、2番と終わってから、登場する英語混じりのCメロのラインがとてつもなく最高です。ワンフレーズ歌った後に、間奏でエキゾチックなアコギソロがさりげなく入り、またワンフレーズ。ここで一気に高揚感が高まり、ちょっと凡庸なサビ。そしてまたあの最高のフレーズ。そしてフェードアウト。
          W-indsの3人の名前も顔もよく知りませんが、『四季』におけるイノセントな輝きに、ZONEという女の子バンドがかつて大ヒットさせた名曲『secret base〜君がくれたもの〜』に通じるものを感じてしまいました。
          年末年始のカラオケシーズン。歌いたい曲が無いとお嘆きの男性諸氏はぜひともマスターすべき一曲でしょう。

          ちゃんと聴いてもいないCDをけなしてみよう 〜bank band 『沿志奏逢(そうしそうあい)』編〜

          2004.11.10 Wednesday

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            bank band 『沿志奏逢』

            最近、テレビを見ていて耳につくのが、bank bandのカバーによる中島みゆきの『糸』という曲である。
            CMやら、MTVやらスペースシャワーやら、至る所で、切ない雰囲気のアニメーションで作られたPVを目にする。

            bank bandはミスチルの桜井氏がボーカルで、小林武史等の面々がカバーソングを演奏するバンドだ。
            演奏される曲は桜井氏が強く影響を受けた日本の名曲の数々と、ミスチルのセルフカバーを数曲。これが悪いはずはないだろうとは思う。

            しかし、僕は以前からミスチル桜井氏のカバーセンスに関しては大きな疑問を抱いていた。時々チャリティライブのようなもので歌っていたビートルズの曲だったり、ピンクフロイドの曲だったりはどう考えても良いとは思えなかった(そもそも英語で歌うのは全く良くないのだと思うが)。
            テレビ番組で小田和正と共演していたが、あの場では小田和正の方が一枚上手だったと言わざるを得ない。
            「おっ」と思ったのが、尾崎豊の『僕が僕であるために』だった。この曲に関してはミスチルの新曲なのではないかと思うほど見事にマッチしていた。


            BLUE ~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI (CCCD)1曲目のCoccoの『ダンスホール』が最高!

            よくあるカバー曲の弱点は、曲そのものは良いのだが、結局オリジナルにはかなわないという点であろう。しかし、桜井氏の弱点もオリジナルを超えれないという点にあるのだが、それは少し意味合いが違う。オリジナルはオリジナルでも、カバー曲のオリジナルではなく、ミスチル自身のオリジナル曲を超えることができないのだ。
            桜井氏は素晴らしいボーカリストなので、確かに何を歌ってもよく聞こえるのだが、それでも最後には「ミスチルの曲が聴きたいなあ」という感想に辿り着くのである。
            尾崎ファンが激怒しそうだが、『僕が僕であるために』が仮にミスチルのオリジナル曲だったとしたら、完全にボツになっている程度の曲だろう。悪いが尾崎豊とミスチルのソングライティングのセンスは比べ物にならぬほどミスチルの方が高い。ミスチルのかなわない点は“まだ生きている”ということぐらいだ。

            中島みゆきの『糸』に関しては、また別の話で、こちらでは中島みゆきを超えるにいたってないという点だ。それなりの中島みゆきフリークの立場から言わせてもらうと、どうもこれは選曲ミスと言わざるを得ない(でも、浜省のカバーとかはよさそうなので、今度アルバムはちゃんと聴くけど)。

            小脳梗塞をわずらい、復活してからのミスチルのに対する手放しの賛辞はいかがなものか。確かに、『HERO』も、『くるみ』も『Sign』もものすごくいい曲だ。でも、どうしても手慣れた仕事をしているということと、説教臭いということしか感想が浮かばないのも事実だ。

            ある程度長いブランクを空けたあとのミスチルの楽曲には必ず何か次のステップへ踏み出した予感のする素晴らしい楽曲があった。パッと思い浮かぶのは、大ブレイク後初めての長いブランクの後に発表された『終わりなき旅』。あるいは、小脳梗塞で倒れる前に久々にリリースされた『It's a wonderful world』に収録されている『蘇生』だったりだ。(この『蘇生』に関しては、恥ずかしながらあまりの素晴らしさに涙しちゃったこともあります・・・)


            It’s a wonderful world 2曲目『蘇生』


            『アトミックハート』から『深海』を経て『ボレロ』に到達した頃のミスチルの変化していく様があまりにも凄すぎたので、いまだにそこから脱け出せない僕はどちらかというと、良くない種類のファン層に属しているのだろうなあ。
            でも、やっぱり『名も無き詩』や『花』がいいじゃんと言いたくなってしまうのは、それだけミスチルというバンドが凄かったことの証明でもあり、何をやってもハードルを高く設定され、こんな風にネット上で好き勝手言われてしまうのは大変なことなのだなあと改めて感じるのです。

            メレンゲ「初恋サンセット」に関して

            2004.10.19 Tuesday

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              初恋サンセット

              "メレンゲ"というバンドの音を1週間程前に深夜番組で耳にした。
              メレンゲは名前だけは聞いていた。いかにも下北っぽいバンドで、GOING UNDERGROUNDの一派なんだろうという印象で、多分気に入るとは思っていたが、特に聴いてみようとも思っていなかった。

              深夜、チャンネルをザッピングしていると、「スピッツの草野正宗も絶賛した」などという聞き捨てならないナレーションに思わず手が止まる。

              演奏された曲は「きらめく世界」という曲。歌い始めは・・・

              海が見える 小さな街 水平線を低空飛行 うみねこが飛んでる
              誰もいない 午後の海で キミと遊ぶ うみねこになる でもどこかさみしい眼


              この“うみねこになる”というフレーズに否がおうでも、スピッツの影がちらついてくる。

              静やかに盛り上がり見せるAメロ、Bメロにサビへの期待は高まる。少し展開の変わるサビのフレーズが最高だ。

              そうしてキミは 数センチの雨を降らす
              どこまででもキミを守る それだけでいいかなって思えた


              文字では何も伝わらないが、この「どこまででもキミを守る」という部分で、メロディラインはピークに達する。少し、裏返りそうな声で苦しそうに歌われるメロディが最高だ。

              このメロディラインは、なかなか歌えない。特に斬新だとかそういう意味ではない。自分でバンドなどをやって曲を作る人なら経験あるかも知れないが、自分一人で歌っているときは、ベタベタなメロディが気持ちよかったりするのだが、いざ友達の前でライブなどをして披露するとなると、普通は躊躇する。そして、もう少し難しげなメロディでかっこつけてしまう。

              この恥ずかしい部分を惜しげもなくさらすことができるのが、このバンドの強みだと思った。
              この「どこまででもキミを守る」というメロディラインにだけスピッツにも無かった別の魅力が見えた気がした。

              とはいっても、今回の「初恋サンセット」を通して聞いてみると、やはりスピッツの影響が色濃く出ていることがわかる。スピッツの時期で言えば、「惑星のかけら」「オーロラになれなかった人のために」「Crispy」辺りのヒリヒリとした透明感があった時期に近くて非常に良い。

              2曲目の「二つの雨」のサビではこのように歌われる。

              ララルって歌うだけで雨模様 何もかもがキミに繋がってく

              この歌詞からは、「ルララ 宇宙の風にのる」と歌われたあの曲を思い出さずにはいられない。
              また、タイトルトラックでもある最後の曲「初恋サンセット」というタイトルはそのまま、スピッツの「大宮サンセット」に繋がるだろうし、その曲中の「地図にないオーロの町へ」といったフレーズからもスピッツが滲み出てきている。


              オーロラになれなかった人のために

              別にけなすわけでなくむしろその逆で、かつてここまでスピッツに肉薄したバンドがいただろうかと思う。
              過去にも時折スピッツのようなバンドが出てはいつのまにか消えてしまった。(After Meとか知っている人いるだろうか?)
              歌い方なども低音部が、草野正宗そっくり聴こえる部分がある。

              ただし、バンドアレンジなどは少し素直過ぎて何回も聴くと飽きそうな予感もする。バンドの実力をスピッツと比較するのは酷な話かも知れないとも思う。素直で直情的なところは、GOING UNDERGROUND、アジカンやLOST IN TIME、フジファブリック等の同世代と思われる優等生バンド達に近い印象だ。

              あまりに曲がいいので、簡単に大ヒットしそうだと思ってしまうが、曲が良ければヒットするわけでないのが、音楽業界の難しいところだ。スピッツがあれだけ売れた時代というのは、幸福な時代だったと思う。

              しかし、メレンゲはとても素晴らしいので、いかにも下北的なものを毛嫌いする人達にも聞いてもらいたいものだ。

              とはいっても、僕の中で、ここ1年ぐらいで、最高の日本の男性バンドはサンボマスターであることに変りは無い。
              「恋の門」早く観に行きたい。

              ザ・スリルズ(the thrills) に関して

              2004.10.08 Friday

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                「Let's Bottle Bohemia」

                1年半程前でしょうか、あっという間に心を奪われたアイルランドのバンドがいます。
                そのバンドが2ndアルバムを最近リリースしました。それがまた素晴らしいのです。

                The Thrills(スリルズ)と名乗るこのバンドは、2003年の3月に「santa cruz EP」でデビュー(日本盤)を果たします。その後、5月に「BIG SUR EP」をリリースし、6月には満を持して、「so much for the city」という1stアルバムをリリースするのです。

                既に最初の「santa cruz EP」で彼らの名前は世界中のポップスファンに知れ渡りました。
                ビーチボーイズに代表されるような、60's〜70's辺りのアメリカ西海岸のポップス、ロックの影響が色濃い彼らのサウンドはまさに夏の海を思わせるようなノスタルジックな輝きを持ったサウンドで、アメリカンロック・ポップスの正統的な継承者とも言えるかも知れません。

                アイルランド出身の彼らが何故このようなサウンドを鳴らすことができたのか?
                インタビューから面白いエピソードを見つけました。(うろ覚えなので間違いだらけの可能性が多いにありますが。)
                彼らはバンドメンバー全員で、一度アメリカ西海岸に1ヶ月ほど遊びに行ったことがあるそうです。自分たちの親には、レコード契約が取れたので、レコーディングしに、アメリカに行ってくると嘘をついたそうです。もちろん、その時はレコード契約など取れてもいません。
                「母ちゃん、レコーディングすることになったから、バンドの皆でアメリカ西海岸に行ってくるよ。だから、お金ちょうだいな。」
                みたいなことを言ったのでしょうか?
                親に嘘をついて、海辺のスタジオを借りて、そこでビーチで女の子と遊んだりしてそれはそれは楽しい時間を過ごしたそうなのです。

                バカンスを終えて、故郷に帰ってきた彼らは楽しかったアメリカ西海岸のことを思い浮かべて曲を作り始めます。アイルランドの空があまりにもどんよりとした色だったので、なおさらカリフォルニアの空の色が恋しくなったのでしょうか?彼らの曲には、純粋なまでに、きらきらと輝くようなアメリカ西海岸の太陽への憧れというフィーリングが詰まっていたのです。
                こうして彼らは今度は本当にレコードデビューを果たすことになります。
                彼らの1stアルバムの楽曲は結局アイルランドに帰ってから作った曲だとのことなので、ホントにアメリカでは遊んでただけだったんですね。うらやましい。

                アイルランドという国は血生臭い歴史を持つ国なんですが、そういうことは置いといて、何てのんきなエピソードなんでしょう?スリルズメンバーはもしかしたら、スネ夫の家みたいな家庭で育って甘やかされて育ったのかも知れないですね。

                これが剛田家みたいな所だったら、まず通用しないでしょう。剛田武ことジャイアンが、「母ちゃん、レコード作りにアメリカ行ってくるから、金ちょうだい。」なんて言っても、きっと「何言ってんだよ。バカ息子。あんたまだ近所迷惑な歌、歌ってるのかい!」と耳をひっぱられ、「イテテ、母ちゃん勘弁」とジャイアンが謝るのが関の山です。
                (そういえば、ジャイアンは極零細インディーレーベル“ノビタレコード”から、剛田武名義で「乙女の愛の夢」というレコードをリリースしてました。詳しく調べたところ、初回プレスは24枚程度であったそうです。)

                1stが大ヒットしたスリルズはアメリカに住み始め、製作されたのが、9月に発売された2ndアルバム「Let's Bottle Bohemia」であり、今作ではゲストに、R.E.M.のピーター・バック(ギター)や、あるいは印象的なストリングス・アレンジではヴァン・ダイク・パークスといった重鎮が参加しています。
                前作と比べると若干ギターポップ色が強くなっていますが、いずれも捨て曲無しの最高のポップアルバムです。

                新しい音楽性など特に求めません。毎年初夏頃に、アルバムをコンスタントにリリースしてくれれば、この先、夏に聴く音楽に困ることは無いでしょう。ビーチ・ボーイズ、ザ・バンド、イーグルスといったような偉大なるアメリカのロックバンドに肩を並べる存在になってほしいもんです。

                「あこがれ」こそが最大の表現欲求です。
                スリルズは、アメリカ西海岸の太陽の光量に「あこがれ」続けた結果、
                輝く太陽のようなサウンドを確立したのでしょう。

                斎藤和義「真夜中のプール」に関して

                2004.09.05 Sunday

                0

                  「真夜中のプール」

                  斎藤和義というミュージシャンが特別好きだった記憶は無い。ただ、コンスタントに良い曲を書く人だなぁ、などという印象を持ちつづけてはいた。
                  毎回アルバムをチェックしているわけではない。気づくと時々アルバムを手にとってレンタルして聴いてみたり・・とそんな感じだ。
                  好きな曲は「僕が観たビートルズはTVの中」と「アゲハ」。少し力を抜いた軽めの曲が良い。
                  ビートルズ、ディラン、ニール・ヤング等60年代、70年代の洋楽の王道のポップス・ロックが下地にあるのだという印象もあった。

                  久々にMTVか何かで新曲「真夜中のプール」を聴いて、あまりの曲の良さに僕の胸は踊り、「そうか、結局俺はこういう音楽が何より好きなんだ」ということを再確認させられた。
                  曲自体に何ら目新しい新鮮さは無い。しかし、ドラムのイントロにやられた。
                  それは、オールディーズポップスの超名曲、フィル・スペクター作、ロネッツの 「BE MY BABY」 のあの有名過ぎて最高すぎてグウの音も出ないドラムのイントロの引用であったからだ。(僕は「BE MY BABY」こそが、西洋ポップスの最高傑作だと思う。この曲は桑田圭佑や、浜省からイギリスのTravisに至るまで把握しきれないくらい数多くの人にカバーされている。というか、カバーする曲としては何のひねりも無いという感じでもあるのだが、個人的には Travisのカバーバージョン が好き。Travisの曲は全て素晴らしいが、彼らはカバーのセンスが良い。ブリトニー・スピアーズのデビュー曲をあれだけ物憂げに鳴らすバンドはそういない。)
                  ドン、ドドン、チャッ、ドン、ドドン、チャッ、と鳴らされるあの有名なイントロは、過去様々な曲に引用されている(というより、60年代辺りの洋楽が好きなミュージシャンなら大抵誰でも一度は使っているかも。)
                  僕がパッと思いつくのは、 ブルーハーツの1Stアルバム の「パンクロック」なんかがある。

                  「BE MY BABY」のイントロにはノスタルジアといったものを喚起させる力が抜群に高いのだ。
                  このドラムイントロが流れるだけで、曲の世界にソフトフィルターがかけられ、モノクロームへの世界に変換される。
                  そんな力を秘めた永遠のイントロ。

                  (と、ここまで書いて保存しておいて、後で書こうと思ったら、地元仙台の友人から1年以上ぶりに電話がかかってくる。)

                  グニュウスケ(g)「どうしたの?」
                  フレンド(f)「いや、どうしてるかと思って」
                  g「何?まさか結婚するとかそういう話?」
                  f「いやいや、そっちこそ結婚するとかいうんじゃないの?」
                  g「いや〜、全く縁がないわ。というか、去年電話で話したときと何の変化もないよ、俺。もうちょい、変わってる予定だったんだが。」
                  f「(笑)そういうの聞くと安心するわ〜。結構変わっちゃう人多いから、最近結婚する人も多くなったし。」
                  g「マジでか。う〜ん、でも俺は当分変化無さそうだな〜。」

                  なんて話をした。


                  「真夜中のプール」という曲の冒頭は、学生時代好きだった人が結婚することになったということを人づてに知ることから始まる。
                  そして、その彼女と真夜中、学校のプールに忍び込んで服を着たままプールで泳いだできごとを思い出す歌だ。
                  「真夜中の学校」「プールに忍び込む」「服のまま飛び込む」これらのモチーフはまさに古来より腐るほど繰り返されてきた青春を象徴するモチーフのひとつだ。
                  「ビバリーヒルズ高校白書」でも、ラリー・クラークの「KIDS」でも、若者は皆、真夜中のプールに飛び込んだ。

                  斎藤和義「真夜中のプール」のサビの部分はこのように歌われている。

                  あの日描いた未来とは 何か少し違ってるけど それが時の流れ
                  真夜中に飛び込んだプールで 服のままで泳いだ夏 君は覚えてる?

                  あの日描いた未来とは 何か少し違ってるけど それが今は好きで
                  真夜中に飛び込んだプールは 二度と戻らぬ夏を 僕に見せた


                  僕は、少し違っている未来が好きかどうか今はまだわからない。
                  ひとつ気になるのが、笛のような音でこの曲のメインリフとも呼べるフレーズが鳴らされるのだが、そのメロディが、みやぎ夢大使こと大友康平率いるハウンドドッグの「15の好奇心」という曲のサビのメロディと酷似しているのだ。「フラ〜イ、届けぇ 15の好奇心だけ〜」というメロディと似過ぎているので増々僕の郷愁を誘うのである。

                  By グニュウスケ  ニール・ヤング「Silver & Gold」を聴きながら。

                  A HREF="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000023X9W/aflabbywill-22">「Silver & Gold」

                  以下、ニール・ヤング「Silver & Gold」より引用

                  太陽が輝くなくても
                  雨がぼくと家族の上に強く激しく降ろうと、気にならない
                  だって、ぼくたちの愛は決して色褪せない質のものだから
                  銀や金よりずっと価値がある

                  Cocco復活のとき

                  2004.09.04 Saturday

                  0
                    Coccoの新作絵本、『南の島の恋の歌』を購入すると中に振り込み用紙が入っていて、1500円程を郵便局で振り込むとSCDを購入することができる。

                    Cocco久々の新曲「ガーネット/セレストブルー」はやっと届いた。

                    1曲目「ガーネット」では変わらぬCoccoの姿が垣間見えるが、正直もう少しなんらかの変化を望んでいたものとしては少々物足りない。
                    特にアレンジに関してあまりに今まで使い古したパターンを踏襲しただけという印象は否めないのだ。Coccoがこのタイプの曲をやるのであれば、もっとギターの音は空気を切り裂くような鋭さが欲しい。
                    その一方で2曲目「セレストブルー」は秀逸の出来だと感じた。生ドラムの4つ打ちに乗せて、少し異和感の感じられる前半のメロディから、サビへの開放感が本当に素晴らしかった。

                    Coccoはやはり音楽の人だ。
                    絵の人間ではないと思う。
                    歌詞はいつだって素晴らしいが、言葉の人ではないと思う。
                    彼女は声の人であり、声が届かなければ100%の魅力は絶対に伝わらない。
                    声が「近い」とこんなにも感じることのできる歌い手はなかなかいない。
                    尾崎豊トリビュートアルバム(「ダンスホール」をカバー)でも、彼女の声だけが輝いていた。

                    ドキュメンタリーDVD『Heaven's hell』で、彼女が子供達の前で歌う「Raining」が何より説得力があった。最後に「Heaven's Hell」を大合唱するシーンは音楽の純粋な素晴らしさに溢れていた。

                    音楽人としてのCoccoが復活するときがついにやってきたらしい。
                    それはまさに待望の瞬間。
                    アルバムという形でリリースされるかどうかは現時点ではわからないが、来年の楽しみが一つ加わったわけだ。

                    映画『LIVE FOREVER』に対して

                    2004.08.13 Friday

                    0
                      1997年8月26日
                      oasisの3rdアルバム『Be Here Now』はこの日発売された。
                      僕はもちろんその日に買って、ドキドキしながらプレーヤーにCDを挿し込んだ。
                      1枚目、2枚目と比べても遜色ない出来のアルバムだった。
                      今までで一番音に厚みがあり、リアムの歌も段違いに上手くなっている。
                      音はこれ以上無いくらいクリアで、「stand by me」「don't go away」「all around the world」といったシングル曲はどれも素晴らしい楽曲だった。(「stand by me」のPVなんて最高だった。)

                      oasisを初めて知ったのは、仙台ローカルの深夜番組だった。

                      小林克也のような変な英語交じりのしゃべり方をする、ハーフっぽいが、よくわからないような怪しい日本人(?)が、司会をしていた番組で、仙台などでは数少ない洋楽のビデオクリップを観れる番組でもあった。

                      司会の彼(服装のセンスが最悪)がoasisをプッシュしており、初めて観たのは「supersonic」だった。最初の印象はバンドの演奏は単調だし、歌声もねちっこいし、どこがいいんだろう?という感じであった。「wonderwall」にしても、当時大ヒットしていたらしいが、あの曲は高校生だった僕には渋すぎた。というより、前記2曲に関しては、サビがあまりはっきりと盛り上がるタイプの曲ではないので、『あまりポップではないな』などと、今ではありえないような感想を持ったのである。

                      そんな僕でも反応したのが、ノエルの歌う「Don't Look In Anger」だった。まず、あのねちっこいリアムのボーカルではなく、そして、「Let It Be」を思わせるピアノのイントロから始まるというように、曲がおそろしくわかりやすかったのだ。構成が、洋楽では結構少ない(?)A→B→サビといった構成で、Aメロのあと、Bメロで少しテンションを下げてBメロの最後でセブンスのコードが入り、サビで一気に爆発、といったようなミスチルのシングルと大して変わらないような構成であったのだ(ミスチルだったら、2番のサビのあとに、Cメロが入るだろうが)

                      この曲をきっかけにoasisの魅力を知り、どちらかというと60年代、70年代といった古い洋楽ばかり好んでいた僕も当時の音楽に興味を持つようになった。

                      そのローカル番組でよく流れていたのは、Suedeや、Blurや、Pulpや、Superglassだったりと、イギリスはいわゆる「ブリットポップ」の時代だったのだ。

                      oasisの2ndアルバムを初めに買って、それから1stアルバムも買った。音は決してよくないが、「Live Forever」という名曲があった。解説では、「この曲がわからない人は頭がおかしいのではないか」とまで書かれているほど、ポップな曲だった。

                      その名曲をタイトルに使った、ドキュメンタリー映画が公開されるとあっては行かないわけにいかないのだ。

                      それが、渋谷シネマライズで公開中の「LIVE FOREVER」である。

                      このドキュメントはあくまでも、94〜97年頃までのイギリスのポップミュージックの一面を取り上げているに過ぎなく、この映画で取り上げられなかったところにも様々な動きはあったはずだ。
                      だが、労働党、ブレアーが政権を保守党から奪い去ることと、ブリットポップの隆盛がここまで密接に絡み合っていたことは、日本にいる限り、雑誌などを読んでいても伝わりにくく、
                      そういった部分は新鮮な驚きがあり、非常に面白かった。

                      この映画の中で、一つの結論として、ブリットポップの終焉を1997年8月**日、すなわち、oasisの3rdアルバムが発売された日であると定義している。
                      このアルバムはoasisの世界進出の第1歩であり、最高の売上を記録する大傑作になるはずだという、期待をoasisファンは皆抱いていたはずだ。
                      先に書いたとおり、『Be Here Now』は良いアルバムだった。売れ方だって悪くなかったはずだった。

                      でも、ブリットポップは、oasisは終わってしまった。
                      何故か?

                      時代が彼らを求めなくなった、という言い方も出来るかも知れないが、そんな大げさなことではなく、oasisが特別なバンドで無くなったからだと思う。
                      oasisのミュージシャンとしてのレベルが下がったとは誰も思わなかった。でも、特別ではなくなった。そこにはっきりした理由など無かった。

                      だが、この映画で描かれなかった部分に焦点を当てると、なんとなくその理由は見えてくる。
                      97年という年は、イギリスのというより、世界のポップミュージックシーンにとって重要な年であった。
                      『Be Here Now』の何ヶ月か前に、Radioheadが3rdアルバム『ok computer』をリリースしていたのだ。
                      僕は、当時そのアルバムを聴いて、音楽に対する価値観がガラッと変わってしまったのを覚えている。
                      もっとマニアックに音楽を追求していた人にとっては、新鮮に感じない人もいただろうが、当時18歳の僕にとっては衝撃的だったし、そう感じた人は世界中にたくさんいたのだと思う。
                      大げさだと思うが、何かの雑誌では、Beatlesの『revolver』を抜いて、このアルバムが20世紀最高のアルバムに選ばれていた。

                      とにもかくにも、時代の変わり目といったようなアルバムが97年にリリースされていた。
                      Prodigyの『Fat of the land』なども97年だった。
                      ブリットポップと呼ばれた音楽は、ブレアの労働党の躍進を反映しているかのようにどこか、浮かれた雰囲気が漂っていた。労働党が政権を奪ったときのイギリスの盛り上がりというのは日本でニュースを見るだけではわからなかったが、何か小泉政権が誕生したときのムードに近いと感じた。そのブレアも小泉もブッシュの一味となったおかげでどちらも、政権奪取当時の新鮮さは全く無くなり。精彩を欠いているような印象も受けてしまう。

                      イギリスのポップミュージックを中心に考えるならば、97年という年は時代の変わり目だった。それは、戦後から戦前へと移行した時期とも思える(もちろん現在は戦時下である)
                      だからあのとき、Radioheadのようなシリアスな音楽が脚光を浴びた。根拠のないポジティブを歌い上げる輩に嫌気が差し始めたのだ。

                      97年Blurは、それまでのイメージを覆すような、アメリカのインディロックの影響を色濃くたたえた「blur」というアルバムを発売する。1曲目の「beetlebam」はヘロインの曲だとも言われたらしく、そのPVでは暗く沈んだ部屋でバンドが演奏し、デーモン・アルバーンは床をのた打ち回りながらblurのキャリア史上最も切ない曲を歌った。2曲目の「song2」はまんまNirvanaで、皮肉にもこの曲でblurはアメリカに受け入れられた。けれども、このアルバムはもはやブリットポップと呼ばれた音楽ではなかった。

                      この映画の中で、デーモンは大分不機嫌だったらしく、テンションも低く、まるでblurが敗北したバンドのような扱いで描かれていた。確かに97年のアルバム「blur」は敗北感に満ち溢れたようなアルバムでもあったし、そう取れる。
                      しかし、その後のデーモンの活動は大ヒットしたGOLLIRAZがあり、blurのアルバムは「13」、「THINK TUNK」と実験性に富んだ素晴らしいアルバムで、oasisと比べると、しっかりと時代の気分のようなものをつかんでいるために、未だ現役感は衰えていない。デーモン・アルバーンは元々、時代の気分を読み取るような嗅覚は、ノエル・ギャラガーなどよりもずっと優れていたのだろう。oasisは、はなから時代感覚のようなものを無視しているところに魅力があったわけだから。

                      死んでしまった人間が中心の、遠い過去を扱ったのではなく、未だ現役で活躍する人間が多く登場する、今作のような近い過去のドキュメンタリーの面白さは、上記のblurの例が示しているようなことなのかも知れない。

                      観客は、映画を観ながらも、現在のblurやoasisがどういう活動をしているかわかっている。その後のRadioheadの世界制覇も知っている。終わってしまったブリットポップの名残を惜しむかのように、TravisやColdplayがUKのトップバンドであることも知っている。NYに現れたThe Strokesを発端に世界的にロックンロールブームが訪れることも知っている。UKにLibertinesや、The Ordinary boysが現れ、70年代終わり頃のロンドンパンクの時代を思わせるような状況に現在なっていることも知っている。
                      「Trainspotting」で世界一スタイリッシュだった、ユアン・マクレガーは、いまではまるでニコラス・ケイジのようなたたずまいさえ見せている。ドラッグを便器に落とし、それを拾うために糞尿まみれになりながら便器に顔を突っ込んでいた、あのレントンが、まさか「スターウォーズ」でオビワン役をやるとはあの当時誰も予想していなかった。

                      「LIVE FOREVER」は、ブリットポップ全盛期のイギリス文化の表面的な部分をなぞっただけで、深い部分までには踏み込めてはいない。しかし、だからこそ観客一人一人がその当時の文化に特別な想いを馳せることによって、映画の足りない部分を補足することが出来る。そのとき初めてこの映画は完成するのではないだろうか?

                      この映画の主役はやはりoasisだった。というより、リアム・ギャラガーであった。彼がおいしい所を全てかっさらった映画だった。何も話さなくてもたたずまいだけでおかしいのだ。劇場でも彼が出てくるだけで笑いが起きていたのがとても印象的だった。たくさんのミュージシャンやアーティストが出てくるが、本物のヤバサを持った人間は多分リアムだけだった。だからこそ、面白い。他に表現方法が見つからないが、目が明らかにおかしい。『こいつは他の人間とは違う、できれば関わりたくない。』そういう動物的な防衛本能を目覚めさせる人間である。

                      主役がoasisであるなら、裏の主役はPulpだ。フロントマンのジャーヴィス・コッカ−が、この映画のメランコリックな部分を担当した印象を受ける。映画の中で、「ブリットポップの美学の完璧な要約」と称された名曲『common people』は、今聴くと何よりもノスタルジックな感情が沸き起こる。
                      僕がPulpの曲で一番好きだったのは、『Disco 2000』という曲だった。恋をした女の子に、2000年になったらまたこのディスコで再会しようと語りかける曲である。当時、2000年は遠い未来に感じられた。今では2000年は遠い過去である。
                      未来に対する希望が、今よりも少しだけのんきだった時代の曲である。
                      今現在、2010年に再会しようと歌うミュージシャンは誰も見当たらない。

                      グニュウスケ