スポンサーサイト

2017.01.13 Friday

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    Documentary of HKT48』と『Documentary of NMB48』に関して

    2016.02.15 Monday

    0
      1/29より公開となった、表題の2本の映画について、両作品とも2回ずつ鑑賞してきたので感想を一通り記録しておきたい。

      一応ことわりを入れておくと、いわゆるネタバレとかを気にせず内容について触れているのでご注意を。

      『Documentary of HKT48』について



      指原莉乃、初監督作にて天才の片鱗を見せつけた作品だった。
      パンフにも記載され、監督本人も言及していたが、ドキュメンタリー映画を作るにあたりマイケル・ムーアの作品を観たとのことであり、確かに今回の作品もマイケル・ムーア風のスタイルであったことは一目瞭然であった。
      ここで言うムーア風とは、監督本人がカメラの前に登場し、自ら気になる人物に話を聞きにいき、インタビュー風景そのものを観客に提示するというものである。当然ここでは、話をしている人物だけでなく、話を聞いている指原監督自身の表情に強い意味が付加されてくる。
      また、映画の構造の特徴として(特に前半)、指原監督がドキュメンタリーを製作する上で留意していたことを語り始めたりと、メタドキュメンタリーであると言っても差し支えない内容であった。
      例えば、コアなファンであるならば知っている、HKTの黒歴史とも呼べる5人のメンバーの一斉離脱の件について、深くは触れない理由を語ったり、秋元康事務所でのシングル選抜メンバーを検討する会議の様子を初めて見た監督が感想を述べたりするといった具合だ。
      映画のナレーションは指原監督自身がつとめており、その語り口は説明をするというより、ぼそっと感想を呟いたりとDVDコメンタリーに近しいスタイルとなっており、観客はまるで指原監督とともにHKT48の軌跡を振り返っているような錯覚を覚える。

      冒頭で「天才の片鱗」と書いたが、何故そう思ったかというと、節々に松本人志との類似性が感じられたことに由来する。
      彼らの才能は多くの人が認めるものであり、誰に何を言われようともぶれることの無いタフさを持っているはずである。しかし、彼らは自分自身が何を言われようと気にしないであろうが、こと自分の作品については言い訳がましい所があり、それを作品中に忍ばせるということを平気でやってしまう。自分は傷ついても汚れてもかまわないが、自分の作品は誰にも傷つけも汚されもしたくない。多くの人は「自分イコール自分の作品」なのではないかと思いがちであるが、彼らにとってはそうではないのであろう。自分自身など作品を構成する素材の一つに過ぎないという冷徹な視点を持ちながら、自分の作品はまるで自分の子供のように愛情を込め、全力で守るという情緒があり、それが良いとか悪いとかいうことではない、その振れ幅において類似性が感じられるということがかなり興味深く感じられた。
      (僕はこれを書きながら、松本人志の最新作であり、もしかしたら最後の映画作品になるかも知れない「R100」を思い浮かべている)
      先に述べた指原監督によるナレーションは、松本人志の「ひとりごっつ」や「ヴィジュアルバム」のDVDコメンタリーを想起させるものがある。このドキュメンタリーがDVD化される折には、さらにDVDコメンタリーを付加してくることを切望する。コメンタリーが加わることによって、この映画は更に別の側面を見せることになるであろうことは容易に想像がつくからだ。

      映画の観客としてどういう層にターゲットを定めるかということも明確に監督本人が劇中に語るシーンがある。指原監督が以前より提唱している、「一般層」「ライト層」「コア層」というファン層(一般層についてはファンとは呼べない層であるが)のうち、「ライト層」と「コア層」をどのように満足させるかということにこだわりを見せているようであった(僕の感想としては、映画の目的として、「ライト層」をいかに「コア層」へ引き上げるかということを意識して作られているように感じられた)そして、それは「一般層」がこの映画を観ることはまず無いだろうという判断を、半ば無意識的に下したことに他ならない。僕の勝手な憶測に過ぎないのだが、彼女は秋元康をはじめとした「大人」達へこういうプレゼンを多分実行している。その想像をさせてしまうところが彼女の非凡な才であることは間違い無い。

      監督のインタビュー能力の高さにも感心するほかは無い。曖昧で観念的な言葉で語りがちな若いメンバーに対して、「例えば?」「付帯的には?」「何でそう思うの?」や、涙するメンバーに対して「それは何の涙?」「何泣き?」といった具合に、常に論理が通るように彼女は掘り下げる。この卓越したインタビュー能力こそが、指原莉乃たらしめているのだと映画を通じて強く感じることができた。

      映画を通じて最も印象的なのは、監督の表情である。特に「目」だ。感情を全く読み取ることのできない警戒心の強い「目」だ。
      ちょうど発売中の雑誌「SWITCH」の表紙(藤原新也)でもその「目」は見ることができるのだが、やはり彼女の表情の凄みは、ぜひとも劇場のスクリーンで堪能したいものだ。

      48グループのドキュメンタリーシリーズと言えば、エンドロールで流れる主題歌である。普段のシングルとは少しモードを変えて、シリアスでメッセージ性の強い、いわゆる「エモい」曲になっているので、ファンの間でも人気は高く、コンサートでも大事な場面で歌われたりと常にシングルの次に注目度の高い楽曲となっている。指原監督はこのことを逆手にとった。本作品の主人公の一人、上野遥という一度も選抜経験は無く、しかし劇場公演を誰よりも愛し、人知れず努力を続けてきた彼女が初めて歌唱選抜、しかもセンターとして本作品のテーマ曲を歌う場面でドキュメンタリーが終わるのである。
      映画が製作されるからこそ、上野にスポットが当たり、テーマ曲のセンターに選ばれるというメタ構造を貫き本作は終わるのである。
      エンドロールは、画面の半分がエンドクレジットで、もう半分はマイクを前にヘッドフォンを付け、テーマ曲をレコーディングするメンバーの姿が映される。これは、岩井俊二が監督したAKBドキュメンタリー1作目のエンドロールと同じだ。48ドキュメンタリーシリーズのファンであれば誰しもが「アガる」やつである。指原監督は熟知した上で、「みんなこれ大好きでしょ?」とドヤ顔で編集している様が目に浮かぶようである。
      ただし、楽曲としては少々凡庸で肩すかしをくらったなということを一言付け加えておきたい。

      後半の最もエモーショナルな場面で、HKT48の超名曲「大人列車」のピアノインストバージョンが流れるところも、監督わかってるな、とひたすら彼女の手のひらでまんまと踊らされてしまったなという感想で締めくくりたい。


      『Documentary of NMB48』について



      HKTとは対照的にNMB48のドキュメンタリーは、船橋淳というハード・ドキュメンタリーの監督が選ばれた(「ハード・ドキュメンタリー」って何?オダギリジョー主演の「BIG RIVER」撮った人でしょ?と思ったがパンフ通りの紹介に留める)
      船橋監督は全く外部の人間であり、NMBのことは全く知らない。結果として、NHKのドキュメンタリーのような社会派といっても良いような硬質な作品になっていた。萩原聖人によるナレーションの印象が強いことも一因であろう。先の指原莉乃提唱の「一般層」に向けた作品である。しかし、悲しいかな「一般層」でこの映画を観る人は少ないだろう。そこで、本作品は香港国際映画祭へ出品されることが発表された。(香港国際映画祭がどのくらいの格の映画祭なのかはよくわからないが)秋元康の頭の中では、明確に海外向けの作品にしたいというビジョンがあったのだと想像できる。

      本作品はファン(一部メンバーも)からかなり不評をかっているようだが、僕自身の感想としては非常に好感の持てる良い作品だったという印象しかない。不評である理由も理解できるが、それを一つ一つあげつらって反論していく野暮なことはしたくないので、どういう点が良かったかという僕の感想を書き留めておきたい。

      この作品は船橋監督がドキュメンタリー制作を通じて、NMB48の魅力を知っていく過程を描いた作品だったと言っても良い(ドキュメンタリーとはそういうものなのかも知れないが)。その過程は、僕自身も同じようにその過程を歩んだという自負があるので共感を呼び起こすものだった。
      冒頭、2015年2月の日本武道館のライブシーン(楽曲は「カモネギックス」)から作品は始まる。本作品で特徴的なのは、楽曲を中途半端なところで切らずにしっかりと聞かせる(見せる)ように編集しているところだ。必ず左上に楽曲名が表示され、フルサイズとは言わなくてもいわゆるどういう曲なのかというのが、全く知らない人にも把握できる程のサイズで見せるよう編集されているのだ。
      常々、音楽ドキュメンタリー(海外のも含めて)を観て不満に思うのが、楽曲を中途半端にしか見せてくれないところだ。観るのはファンが大半だからという判断もあるかも知れないが、そのミュージシャンがどういう楽曲を演奏しているのかというのをそのまま見せることが、何より伝わるのでは無いかと考えてしまうので僕としては不満に感じる作品が多かった(予断だが、大根仁監督による電気グルーヴのドキュメンタリーも楽曲をたっぷり聞かせてくれていたので、僕としては大満足の作品であった)。先のHKTドキュメンタリーでは楽曲をちゃんと聞かせるようなシーンは皆無であったことにも触れておきたい。もちろん、音楽ドキュメンタリーではなく、アイドルドキュメンタリーであるのでそれはそれで理解はできるのではあるが。

      劇中で印象に残る楽曲、これは船橋監督本人に響いた曲だったと思うのだが、「カモネギックス」「初めての星」「結晶」「ドリアン少年」「青春のラップタイム」などであり、これはもう「わかるわかる」という感じである。特に「初めての星」「結晶」「青春のラップタイム」などは、NMBを知り始めたらもう絶対ひっかかるよね、船橋ちゃん、と肩を組みたいくらい共感できる。
      須藤凛々花を取り上げる場面で、「ドリアン少年」のMV撮影シーンに多くの時間が割かれている。このMVは三木孝浩が監督している。もしかしたら、三木監督と船橋監督はお仲間なのかなくらいに勘ぐってしまったが、三木監督が演出しているところを船橋監督率いるドキュメンタリーチームのカメラが映しているというのは、なかなかに面白かった。そして、「ドリアン少年」のMVがかなりの時間、映画館のスクリーンに映し出されるのである。このMVは結構な名作なので、これだけでも映画館で観る価値はかなりあると感じる。

      映画のストーリーの核として選ばれたメンバーは4名だ。グループの代表として山本彩、山本と同期でありながら一度も選抜経験が無く、劇場職人としての道を進んで行く沖田彩華と彼女を支えるファン。母子家庭に育ち、年の離れた弟の面倒を母親代わりとして見続け、いつかは一家の大黒柱になりたいと願う矢倉楓子、哲学に傾倒しアイドル道を選んだ須藤凛々花。
      映画のほとんどがこの4名のことばかりだったということに不満を持つ人も多いようだが、船橋監督としては、自分がドキュメンタリーを撮る以上、コアなファンしか楽しめないようなものでは無く、NMBもといアイドルグループに興味の無い人にも接点を感じられるようなメンバー、社会性を感じ取れるような題材を取り上げたいと考え、この結論に達したのだということは理解できる。
      映画の予告編にも使われているが、須藤凛々花が、ニーチェやジョン=スチュアート=ミルといった哲人達の言葉を引用した散文詩(クレジットでは監督と共作となっていた)を朗読しながら、道頓堀川を舟で下るというシーン(モノクロ)が随所に挿入される。このシーンはちょっとひねくれた映画監督にありがちな「かっこつけ」くらいに思っていたのだが、今になって考えると結局この部分に船橋監督が本作品を通じて伝えたかったものが凝縮されていたのだなと感じてしまう。
      僕が唯一理解できなかったのが、報われないメンバーに対する献身的なファンの姿であった。メンバー達の苦労などは、一定の理解はできる。どんな世界にだって、頑張っても周りから認められない、努力が報われない、などといったことはあるし、誰しもがどこかで承認欲求のようなものがある。欲望の源泉となるものは誰しもが同じであり、アイドルであろうがサラリーマンであろうが、どこか共感できるところはある。しかし、ピュアと呼ぶにふさわしいファン達は何故そこまでして一人のメンバーを応援したいのか、生活の全てをそのメンバーに捧げたいのか、彼ら自身の言葉でも語られているのに、結局のところ根源は理解できなかった。そして、船橋監督自身も理解することができなかったのだと思う。わからないものをわからないと描いたが故に、それは畏怖の念にも変わっていく。ピュアな者に対する怖さだ。どうしても宗教的な何かを感じ取らずにはいられず、神の存在を本気で信じない者にとって、ピュアな者ほど怖いものは無い。それは船橋監督本人の率直な視点だったのだと思う。そして、僕自身もその視点は船橋監督と同じであると感じている。
      須藤凛々花が語る散文詩は「何故、アイドルになるのか。」「何故、アイドルを応援するのか。」「何の目的で?」「何を得られるのか?」という問いかけである。問いかけるということは「わからない」ことの表明でもある。とどのつまり、「わからない」ことを「わからなかった」と表明することがこの映画の最大の主旨であったのだと思う(これはまさに海外向けな描き方だなと感じる)

      HKTドキュメンタリーでも同様に不遇のメンバーを献身的に応援するファンを追いかけていたが、こちらはNMBとは対照的にひたすら温かく、感動的ですらある描き方をされていた。それは指原監督本人が、神であり教祖でありという立場ゆえのものだろう。神の視点からすれば、ピュアな信者に対するまなざしは温かい。NMBドキュメンタリーと真逆で、「わかっている」監督が「わかる人にわかって欲しい」というスタンスが無意識的に表出してしまっているのだろう(こういう点も松本人志ぽい)

      同日公開で比較されることを前提に作られているのかと勘ぐってしまうと、このような形で長文記事を挙げてしまうのは、秋元康の術中にまんまとはまったようで少々気恥ずかしいのだが、それだけ楽しませてもらったということだけは強調しておきたい。

      ※追記
      NMBドキュメンタリー主題歌「道頓堀よ、泣かせてくれ」は、やしきたかじんテイスト満載で名曲だった。

      ※追記2
      タイトルから、男闘呼組「ロックよ、静かに流れよ」を連想してしまった。
      いつか山本彩には男闘呼組の楽曲をカバーして欲しい。何故なら声質がぴったり合うからだ。