そのローアン・ワトキンソンにも似た老け顔(実際大分老けた)の男が弾き始めたAadd9のアルペジオは、スタジアム中の観客を大いに沸かせた。その数秒前から鳴り始めたキーボードの音色で瞬時に何の曲が始まるかを僕は理解した。
強引に直訳すると『シャンペンの超新星』という、
やはりまた意味不明な名を与えられたこの曲を聴くために、わざわざ幕張まで来たのだ。
Kasabianにも耐えたのだ。
Teenage Fanclubをあきらめたのだ。
Don't Believe the Truth
「How many pople special change〜」とリアム・ギャラガーが歌い始めると同時に会場(少なくともアリーナ前方)は大合唱。もちろん僕も歌う。「We are getting high〜」でフェイクして、ギターのバッキングは大きくなり「Someday you will find me〜」とBメロに進行した。
この曲のためにこの舞台を組んだのでは無いかというほど、満点の星空が想起される電飾は、ザック・スターキー、アンディ・ベル、ゲム、ノエル・ギャラガーを薄く照らし、フロントに立つリアム・ギャラガーだけをもう少しだけはっきりと映し出す。
なるべく大画面モニターを観ないようにした。歌が2番に入ってから歌うのをやめ、バンドの音に耳を澄ませてみる。しかし、周りの小僧の歌声が左の耳からずかずかと侵入してくる。でもしょうがない。誰だって、自分の知りえぬところで他人に疎まれているものだろう。
oasisの出番まで1分の狂いも無いほどタイムテーブルにしたがって進行されきたのだが、oasis直前で機材トラブルが発生し、結局開演時間は40分遅れた。その待ち時間はアリーナ席前方で待つ者達には永遠とも思えるような長い時間で、金曜の夜の新宿からの高尾行最終電車ほどの混み具合で、なおかつ皆の体は汗でベトベト。そんな中で、Weezerの出番が終わってからoasisが登場するまで、約70分待ち続けたのだ。
そんな状態でoasisを待ち続けたわけであるから、特にアリーナ前方にいた者でその日のoasisに対して、盲目的にならずにいれる者などいるわけが無かった。
リアムのかっこよさは永遠だ・・・
モーニング・グローリー
序盤は、新アルバムの曲と、「morning glory」やら「Cigaretts&alchol」など古い曲を織り交ぜてなかなか飽きない展開。新アルバムの「へ〜い、らいら!」という曲では皆ピョンピョン飛び跳ねている。
これは楽しい。やはりオアシスは別格だ・・・
少し太った
序盤も終わり次第に目が慣れてくる。右上に目線を向け、モニターに映し出されたリアムの顔を見ると、それは一人の老け込んだイギリス男の顔だった。真横からのショットでは、少し出っ張った腹が目立っている。そりゃそうだろう、リアム・ギャラガーも既に妻子持ち、30代前半と言ったところだろうか。自然とオヤジになっていくのだ。白髪染めのひとつやふたつしていてもなんらおかしくない。僕が『morning glory』を手にしてからもう10年経ってしまったのだ。
ノエル・ギャラガーは元々が年寄りくさい顔をしているので、更に顔にしわが増え、おじいさん、といったたたずまいであるが、彼は今の方が昔よりもかっこよくなったなあと感じる。
両腕を上に上げると、涼しい海風が腕の湿り気を乾かした。野外のライブでのアリーナ席にいるということは、水の中にもぐっているようなもので、腕を人ごみの中から逃がすだけで深呼吸ができる。皆、腕を上げているのは、舞台上のパフォーマーに対する賛辞でもあるのだが、単に涼しくて気持ちよいから腕をあげるのだ。
それにしても、先ほどのWeezer、巧みだった。予想通り、新アルバム『make bilieve』2曲目、「perfect situation」はライブでその魅力を存分に発揮した。夕暮れに包み込まれる時間に、「うぉ〜、うぉ〜。うぉ〜、うぉ〜。うぉ〜、うぉおおお〜。」と、合唱したあの瞬間、千葉マリンスタジアムは50年代のアメリカだった。いや、リヴァース・クォモが細身のストレートジーンズに赤を基調としたチェックのジャケット、手にはギブソンSG、といった出で立ちで登場したときから、千葉マリンはアメリカン。思いきりアメリカンだ。『Back To The Future』がむしょうに観たくなる。マイケル・J・フォックスはどうしているのか。
ああ服装と言えば、リアムのあの首に巻いているスカーフはどういうつもりだろう?似ているというわけでは無いけど、どうしたって中尾彬の首周りがちらついてくる。多分リアムに、ダウンタウンDXあたりに出ている中尾彬の映像を見せれば、きっとーファッキンクール!ーなどと言って、真似をしかねない。リアムはまだ中尾彬を発見していないだけのこと。
問題の首巻き
カサビアンの1曲目はちょっとだけかっこよいかもと不覚にも思った。しかしすぐに考えを改める。ギタリスト、確かにイケメン。ヴィンセント・ギャロみたいだ。声の変なところもギャロっぽい。Weezer、Oasisの待つ至福の時間までの辛抱とあきらめる。
その後、Weezerのおかげでカサビアンというバンドの記憶はほぼ消えうせた。
『Champagne Supernova』が終わったら帰りたくなった。よく、この時間が永遠に終わらなければいい、などという表現を耳にするが、それとは真逆の、早く終わって欲しい、という想いが常に矛盾をはらんだまま付きまとう。誰かのライブを観に行ったときでも、何かの映画を観に行ったときでもいい。自分が観たくてお金を払って、わざわざ足を運んでいるのに、始まったとたんに終わることを願い出すのだ。oasisが出てきた瞬間に帰りたい気持ちがあった。彼らが確かに千葉に来て自分の何メートルか何十メートルかの距離で演奏をした。その事実だけを確認できさえすれば、後は自転車にでも乗りながらCDを聴いてれば満足なのだ。
『Champagne Supernova』の後もヒット曲は続いた。『Rock'n Roll Star』が続き、そのほかにも、『Wonderwall』やら、『Don't Look In Back Anger』やらも演奏する。
『Don't Look In Back Anger』は、多分日本のOasisファンが一番歌詞を覚えて歌いやすい曲であろう。僕も完全に歌詞を通しで丸暗記している曲はこの曲くらいだ。だからこそ、この曲がその日一番の大合唱となったことは必然だ。僕も大声で歌った。ノエル・ギャラガーは、「so sally can't wait〜」と歌われるサビの部分になるとマイクから口を離した。もはや歌っているのは観客だけだ。何万もの観衆の大合唱。それはロックンロールのライブにおいてはある種美しい光景なのは間違いない。しかし、観客を見ながらギターを弾くノエルの年老いた顔をモニターで観ると、何とも複雑な気分になった。
『Don't Look In Back Anger』という曲を何故リアムに歌わせなかったのか詳しい理由は知らない。キーが合わないだとか具体的な何かがあったのかも知れない。だが、ノエルはこの曲を誰にも渡したくなかったのではないだろうか。弟にすら歌わせない、この曲は自分だけのものだ、そうしたエゴを主張したくなるほど素晴らしい曲を作ったと確信していたのだろう。
しかし、この曲は既にOasisの、いや、ノエル・ギャラガーの所有では無くなった。ノエルはこの名曲をオーディエンスに譲り渡したのだ。もしかしたら、半ば強引に奪われていたのかも知れない。古今東西の名曲に付きまとう矛盾は例外無くOasisにも襲いかかり、その呪縛から逃れうることは不可能なのかも知れない。ヒットチャートの上位に登り詰めることを目的としたポップスならば、それは一つの到達点だ。しかし、Oasisはロックンロールであり、存在そのものが芸術的で、彼らも常にそれを信条としてきたはずだ(芸術なんて言葉はくだらないと考えているかも知れないけど)。
曲の最後のフレーズ、「Don't Look Back In anger〜」とためにためて歌う部分は、長渕剛の「乾杯」、あるいは、サザンの「いとしのエリー」のようにお約束として観客のために歌われた。「ヘタクソな英語で歌わなくていいからお前ら黙って聴いてろ」などというあ
の魅力的で死ぬ程かっこいいOasisはもう消えてなくなってしまったのだろうか。
1stと2ndの曲を予想以上に彼らは演奏した。しかし、それは前向きに考えれば現在の曲に対する自信の現れかも知れないとも捉えることはできる。最新の発言を読んでいる限り、というか、デビューの時からずっと常に最新作が最高傑作だと大口を彼らは叩き続けた。ほとんどのミュージシャンは自分たちの最新作を絶賛する。それはプロモーションの為でもあるのだろうけど、Oasisに限っては少し違うのでは無いかという希望を僕は持つ。少なくとも表現者である以上、常に現在進行形の作品こそが最高傑作だと心から信じるべきだ。そうでなければ、表現活動など続けて行く必要は無い。往年の名曲を演奏して観客を喜ばせることに終始すればよいだけのこと。そして、それは決して俗っぽいことでも何でも無く充分に素晴らしいことだと思う。
最新作が最高だと信じ切っているからこそ、彼らは惜しげも無く1stと2ndの曲をリスナーに譲り渡すことができたのかも知れない。そういえば、僕が前回Oasisを観たときは3rdの『Be Here Now』をリリースした時であったが、そのときは執拗に3rdアルバムの曲を演奏していた。今回のライブでは1曲も演奏されなかった3rdアルバムだ。それはそのときの彼らが最新作に対して完全な自信を持つ事ができなかったからであろう。現に後の発言で3rdアルバムが気に入っていなかったことを語っている。
『Don't Look In Back Anger』と並んで、多くの人にとってハイライトとなるはずであったろう『Live Forever』が何故だか知らないが、ザック・スターキーのせいなのか、異常にテンポが遅かった。あの曲はレコード以上にテンポを落としてしまうのはいかがなものか。あの曲の魅力は、若干閉塞感すら感じる前半の歌からサビに突入した瞬間にもの凄いハイスピードで周囲の空気がほどけていくようなあの感じ。あの感じこそがたまらないのだ。残念ながら『Live Forever』にマジックは無かった。
現在のTHE WHOのメンバーでもある、ザック・スターキーがドラムであったから、大半の予想通り『My Generation』でライブは締めくくられた。個人的な好みだろうけど、僕はOasisのカバーは『C'mon Feel The Noize』以外はあまり好きではない。The Whoの曲の中でも『My Generation』は全く好きじゃない。終わり方とすれば不完全燃焼ではあったのだ。
『Champagne Supernova』の話がしたい。曲は「Cos people believe〜」と歌われるCメロにさしかかる。ギターのノイズが少し増したようにも感じる。でも、まだ足りない。ギターの音圧が絶対的に足りない。僕の想像の中の『Champagne Supernova』の音圧には敵わない。誰か舞台に飛び上がって、ノエルのアンプのゲインを最大まで上げてくれ。リアムの声などかき消すくらいの、洪水のようなギターの音に溶けてしまいたい。
7分の長尺の曲中、2回だけ登場するあのギターリフが鳴る。1回目も2回目も半拍程タイミングが早いように感じられる。いや、絶対に早い。あの反拍のタメがあるから僕は宇宙の果てまでぶっ飛んで行けたのに。
待望の『Champagne Supernova』は終わった。『Rock'n Roll Star』が始まる。少し年を取り、疲れた顔をしたリアムが今歌うには少しだけ無理があるように思えた。何故僕が『Champagne Supernova』という曲にこだわっていたか、それは年を取った今のOasisが歌うのに最も適した曲であると考えていたからだった。この曲は浴びるほどの名声を手にした後の人間の歌だ。それは一一般の僕らには共感できるはずの無い歌であり、若かりし頃のリアムが歌うにも少し早すぎた歌だ。今のOasisだからこそ、父親になった現在のリアムだからこそ、かつては表現できなかった深みが加わると思うのだ。だって、改めて歌詞を読み返すと、まるで父親が息子に語りかけるような曲にも聴こえてくるのだ。
Definitely Maybe
追記
1ヶ月遅れで発売されたSNOOZER最新号のoasisの記事を読むと、僕が今書いたことはかなり悲観的な見方だというように受け取れる。しかし、アメリカでのライブレポートの中で『Champagne Supernova』の事に触れた文章に重大な間違いある。以下、48ページから引用。
僕の観察が間違っていなければ、この日もっとも大きな歓声で迎えられたのは、この次に演奏された”シャンペン・スーパーノヴァ”だった。『ディフィニトリー・メイビー』を単なるイケイケの一元的なロックンロール作品には終わらせていないのは、やはりこの曲の存在があってこそのこと。う〜ん、やはり名曲とシミジミ。
最初、誤植かと思った。しかし、”シャンペン・スーパーノヴァ”が収録されている『モーニング・グローリー』は単なる一元的なロックンロール作品では全く無い。田中宗一郎の完全な記憶間違いだ。『モーニング・グローリー』のラストが”シャンペン・スーパーノヴァ”であることはかなり重大だ。その後のOasis作品と、2ndまでのOasis作品をはっきりと分ける役割を、この”シャンペン・スーパーノヴァ”が果たしていると思うから。メンバー交代云々ではなく、Oasisはこの時点で一度終わっているのだ。そしてまた別のバンドになって現在に至る。ドアーズで言えば、「the end」に当たる曲が”シャンペン・スーパーノヴァ”なのだ(いや、全然違うかも)。
確実に言えること。4,5年ぶりに観るOasisは最高だった。
他のどのミュージシャンを観てもここまでの妄想に取り憑かれることは無いだろう。