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2017.01.13 Friday

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    リドリー・スコット「オデッセイ」に関して

    2016.02.18 Thursday

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      年が明けてから、スピルバーグやらゼメキスなどアメリカの巨匠監督の作品が立て続けに上映されているのだが、興行成績はどれも前評判に比べればふるわなかったようである(特に作品がだめというわけではなさそうなのだが)。
      スピルバーグは観たかったのだが、上映時間の長さへの煩わしさに加え、48グループのドキュメンタリーと、イメージフォーラムのアピチャッポン・ウィーラセタクン特集上映が最優先であったので、すっかり観る機会を逃してしまった。
      その中で、現在大ヒット中であり、一人勝ちと言っても良さそうな作品が、リドリー・スコット監督、マット・デイモン主演の「オデッセイ」である。

      この作品のどこが面白くて、何故にこんなにもヒットしているかという分析は以下のリンク先(RealSound)の小野寺系氏による評論に全て書かれているので、あえて僕が同じようなことをここで書いてもしょうがない。
      http://realsound.jp/movie/2016/02/post-983.html

      他には「火星版ダッシュ村」だとか「こち亀」に似たような話があるとかいう意見もあったが、その通りなのであろう(僕はさほどそうだとも思わなかったが)から、僕がここで同じようなことを書いてもしょうがない。

      ただ面白い映画だった、くらいではブログの記事を書きたいとは思わないのだが、それ以上に僕の感情を揺さぶる「何か」があったので、今回記事にしてみたいと思ったのだ。

      その「何か」とは何か?

      本作品の鑑賞後、僕は他の観客同様にポジティブな感動に満たされていたと同時に、漠然とした「何か」を獲得した、という確かな感触があったのだ。これは初めての感覚では無く、ものごころ付いたときから何度も感じたことのある、「獲得感」であった。

      自転車に乗れるようになり、徒歩ではいけなかった遠くの街が身近に感じられたとき、仙台から東京の大学に進学し、異世界だった東京の街が、自分の住んだ街、大学のある街、ライブハウスのある街、一つ一つ知らない土地が、自分の経験となり血肉となっていく「獲得感」を感じていた。
      最近になっても、自分の車を手に入れると、さらに遠くの土地は自分のものとなり、気兼ねすることなく旅立てるようになった。あんなにも遠くに感じていたフジロックだってもはや慣れたものだ。金銭的にも余裕ができると、新宿に買い物でも行くくらいの感覚で名古屋だって大阪だって福岡にだって行けるようになった。
      知らない土地で行きつけの店ができたり(そんな大層なもので無くても良い、とりあえず一休みしたいときに入るドトールやスタバだったり、一服したいときの喫煙所だったり、綺麗ですいているトイレの場所だったり、アプリを利用せずともスムーズに電車の乗り換えができたり・・・)
      といった一つ一つ獲得していくような感覚と同じものを、「オデッセイ」の鑑賞後に確かに感じることができたのである。

      僕にとっての宇宙観とは、手塚治虫による「火の鳥 宇宙編」で描かれていた宇宙のことであり、それは想像もつかぬ程遠く、絶望感に満ちあふれた世界であり永遠に縁の無い幻想の世界であった。
      つい最近であっても、クリストファー・ノーランによる「インターステラー」などは時空というのか次元と言えば良いのか、常人では理解することのできない距離感を宇宙に対して抱かせる作品であったし、「オデッセイ」の監督であるリドリー・スコットだって前作の「プロメテウス」で描いた宇宙は何というかトンデモなものであったので、到底現実の世界とリンクするようなものを普通の人間が感じることなど無理であった。

      「オデッセイ」を観て、僕は宇宙の、火星の生活というものの一端を獲得したような気がした。一見映画の内容と全然関係無いような気もするが、そのように思わせてしまうところが本作品の肝なのではないだろうか。今時の映画にしては、火星の描写が、火星というよりは中東辺りのロケ地そのままのように見えてしまっているということも理由としては考えられるのだが、それが不可抗力であるのか狙っているのかは判別ができない。

      最後の救出ミッションも、マット・デイモンをピックアップする車が全て出払ってしまっているため、車を新たに用意するのは時間がかかり過ぎるから、先に出ていて今まさに家(地球)に帰ろうとしている人たちに、お弁当預けるから、も一回火星に行って、マット・デイモン拾ってきてよ、というノリだった。もちろんそれの一つ一つを実現するには非常に困難なことであることは頭で理解はできる。しかし、もはやそんなことは大した問題では無いのかもしれないと思わせたことがこの映画が新鮮な驚きをもって迎え入れられた点なのだと思う。

      このお茶の間SF感は日本人である我々にはなじみ深い。何十年も前から藤子・F・不二雄によって描かれていた世界観でもあるからだ。クリストファー・ノーランによるクソマジメなSFも悪くないが、「たかが火星じゃねえかこんなもん」というSF観も悪くない。むしろ日本人である我々によりしっくり来たが故にここまでの大ヒットとなっているのだろう。

      しかしながら、ここまでNASAが魅力的なアツい職場だと描かれ、火星がさも自分たちの生活圏内の一つになり得るかのように描写されたことに何か政治的な意図があるのではないかと勘ぐらざるを得ない。
      アメリカの国家レベルでの宇宙開発は停滞しているかと思っていたのだが、もう一度莫大な予算と投じて宇宙開発を一気に押し進めようとでも考えているのだろうか?(ヴァージンなどのように民間の会社が独自の宇宙開発を行っているのが潮流となってきているが、ホリエモンは宇宙詐欺にあったばかりだ)

      現実的に考えれば、僕は自分が生きている間に、自分自身が火星に行けることになるなど考えていない。それでも、映画を観終わってまだ1週間と経てしない現在、僕は火星を獲得したような高揚感に包まれているのだ。

      映画の後半、故デヴィッド・ボウイの「Starman」が流れるシーンは本当にエモーショナルで最高のシーンだった。「Life on Mars」では無く、「Space Oddity」でも無く、「Starman」なんだなあとしみじみとしてしまったよ、ホント。
      (結構、これは重要なことのように思う)


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