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2017.01.13 Friday

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    阪神・淡路大震災15年特集ドラマ「その街のこども」に関して

    2010.01.24 Sunday

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      その街のこども

      http://www.nhk.or.jp/hisaito/sonomachi/


      NHKにて、1/17に放送した「その街のこども」を観た。脚本が渡辺あや、音楽が大友良英という魅力的なラインナップが直接の動機だ。


       実際にそうだったらしいのだが、森山未来と佐藤江梨子(以下サトエリ)の役柄は、それぞれ小学四年生と中学一年生の時に震災を経験している25歳と28歳の男女だ。十数年ぶりに訪れた故郷の神戸で、偶然出会った二人の一夜が描かれたドラマである。


       サトエリ演じる女性は、震災で親友の女の子を亡くしている。

       また、森山演じる男性は、建設業を営んでいた父親が、震災に乗じて代金を10倍にふっかけて大儲けし、会社が大きくなり東京に出てきた。父親が、困っている人達の足元を見て、ある意味あこぎな商売をしたことで、地元での評判が悪くなり、その子供であった森山も学校の友達から無視されるようになったというような心の傷を抱えていた。

       少年野球の試合で、サヨナラホームランを打ったのにもかかわらず、監督、コーチも含めて誰からも祝福されなかったと語るエピソードは胸を打つものがあった。


       内容が非常に良いドラマだったのだが、僕が魅力を感じたのは、それよりもドラマの根本を貫くスタイルの方だった。

      このドラマは、言ってしまえば二人の男女が深夜の神戸の街を歩きながら、ただただ対話、時には独白をするだけのドラマなのだ。

       想起されるのは、リチャード・リンクレイターの「恋人までの距離(ディスタンス)」「ビフォア・サンセット」の二作だ。これらの映画も、主演のイーサン・ホークと、ジュリー・デルピーが、東欧の街とパリをただ歩きながらとりとめも無く話すだけの映画である。


       僕はこういうドラマのスタイルが好きなのだろう。ただ二人の人間が話をするだけ。街を歩き回るというのが一つのポイントではあるだろうが、結局わかりやすいような大きなドラマは無い。登場人物達が安易に日常から逸脱することも無い、そういうドラマが好きだったのだということに気づいたのだ。


       人が美しい思い出として記憶していることとはどんなものがあるだろう?家族と旅行に行ったことだろうか?修学旅行だろうか?甲子園出場を決めたことだろうか?大学のサークル仲間と飲み明かしたことだろうか?海外を旅して回ったことだろうか?バンドを組んで学園祭でライブをしたことだろうか?

       いや、それはそれで美しい思い出かも知れないが、本当はそうではないだろう。集団やグループで何かをした、成し遂げたということよりも、最後に残るものは、「誰かと二人でいた」ということなのでは無いだろうか。


       僕が思い出すのは、誰かと二人で話をしたこと、それだけなのだ。家族親族、男友達、女友達、恋人、苦手だった人、嫌いな人、たまたま知り合っただけの人、名前すら知らぬ人、想いの届かなかった人、そうした人達と、嘘も真実もごちゃ混ぜになったとりとめも無い会話を繰り返したこと、言葉を探しながら話を続けたこと、それらが時にぼんやりと、時に鮮明に思い出されるのである。


       集団で行動したことは、自分が忘れても誰かが憶えている。しかし、二人だけで過ごした時間は、その二人だけしか知り得ない。他の誰にも知り得ない。だから人は忘れないのかも知れない。当事者の二人が忘れてしまったら、その時点でその時間はこの世に存在しなかったことになる。そういう儚さが「誰かと二人でいる」ということには常に隣り合わせで存在する。


       このドラマにも、リンクレイターの映画にも、そういった儚さがずっと付きまとっていた。だから、僕はこのドラマのスタイルに魅力を感じたのだ。


       ドラマを観ながら、映像で描くフィクション(映画・ドラマ)と文字で描くフィクション(小説)で描くことのできることについて考えた。

       映像表現は、徹底的に視聴者の記憶を呼び覚ますものを描く以外に無いと思う。既視感、ノスタルジア、そういったものは映像ならでは強みだ。震災を経験しなくとも、年齢、職業が異なろうとも、サトエリと森山の散歩と対話は僕の記憶を刺激した。誰も観たことも無いようなことを映像で表現することはできないし、する必要も無いのだと思う。

       比べて、文字表現、すなわち小説は常に誰も見たことも無いような世界を表現するべきだし、それしかできないのだろう。いくら文字で表現をしつくしても、そこに描かれるものは、どこにも無い街のどこにもいない人々だ。映像が後ろを向いているのに対して、文学は前を向いていると言い換えても良いのかも知れない。そして、どちらが優れているということも無い。どちらも存在していてほしいと思う。


       優れた映像フィクションを観ることで、僕は既視感を憶えつつも目の前の美しい映像と僕の何てことの無い記憶が混じり合い、僕の記憶が緩やかに書き換えられていく。そうやって「美しい思いで」は作られ、輝きを増していく。

       優れた文学を読むことで、僕は日常を逸脱し、知り得ることの無い世界を知ることができる。


       こういったものに興味が無い、触れることも無いという人も多いだろう。そうした人達はどうやって、思い出を美しく変えているのだろう?どうやって日常を抜け出しているのだろう?時にもの凄く現実的な人はいるが、それはそれである意味「強さ」を持ち合わせているのだと僕は感じている。


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      2017.01.13 Friday

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        コメント
        この記事、とても理解できました。
        ここまでのことを書かせる、本作品は
        本当にすごいんだと思います。

        別に、震災のドラマじゃなくても、このスタッフ、役者のみなさん
        は本当にすごい人達です。
        • by 通りすがり@関西人
        • 2010/01/24 11:57 AM
        通りすがりですみません。
        私もあの映画が好きなので、何気なく見始めたこのドラマに引き込まれてしまいました。
        最後の東遊園地のシーンは17日の朝に撮影されたそうです。二人の設定もですが、フィクションとノンフィクションの間を漂う感じが何ともたまりませんでした。
        • by akira
        • 2010/01/24 2:22 PM
        通りすがり@関西人さん、akiraさん、コメントありがとうございます!
        何も返信してなくて申し訳ありません。零細ブログで反応があまりあったことが無かったもので・・・友人にコメントがあったよと指摘されてようやく気づくというていたらくです(笑)

        >通りすがり@関西人さん
        そうなんです。ドラマの内容とは特に関係無いことを書いたとは思うのですが、こういうとりとめも無いことを考えさせる作品こそが良い作品なのだと僕は思っています。面白いことは面白いけど、何も感じない作品って多いですからねえ・・。

        >akiraさん
        やはりそうでしたか!僕もあの最後のシーンってどうしたんだろうと思いました。まさかエキストラを使って集会を事前に撮ったとも思えなかったですし。撮影してすぐに放映なんて、NHKスタッフの気合いが感じられますね〜。
        • by gnyuske
        • 2010/02/14 11:06 PM
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