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2017.01.13 Friday

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    『あの頃、加護亜依と』

    2008.04.13 Sunday

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      デュオU&U

      もの凄く、久々の更新で何を書くかと言えば、加護ちゃんのことである。喫煙問題で事務所を解雇されていた彼女だが、ようやく表舞台に姿を現し、芸能界に復帰するということは大分話題になっていた。何より、久々に出てきた加護ちゃんがますます可愛くなっていたということに多くの男性諸氏(もちろん僕も)は驚愕したわけだが、そんな彼女がとりあえず復帰活動の手始めにブログを始めたのだ。

      で、その中に非常に興味をひかれた記事があり、僕もブログを更新したくなったわけなのだ。

      どんな記事に興味をひかれたかというと、このリンク先の
      4月12日の日記である。
      http://biscuitclub.fc.yahoo.co.jp/index.php?itemid=21

      好きな映画を紹介しているのだが、その映画とはキャメロン・クロウ監督作『あの頃ペニー・レインと』なのだ。僕もこの映画はかなり好きだし、キャメロン・クロウの作品は全て好きなので、監督本人すら失敗作だと認めてしまった『エリザベス・タウン』も異常なくらい好きすぎるのだ。

      この映画は70年代のアメリカで、一人のライター志望のロック好き少年が、ロックバンドのツアーに同行し、そこでペニー・レインという少し年上の女の子と出会うという胸がキュンとなるような切ないボーイ・ミーツ・ガール物の青春映画だ。ペニー・レインは、いわゆるそのロックバンドのグルーピーのようなもので、ギタリストと恋人のような関係にあるのだ。

      ヒッピー文化の香り残るあのアメリカの時代の雰囲気や、70年代前後のアメリカのロックやポップスが好きな人だったら、大概この映画は好きなはずだが、加護ちゃんがそういったことに興味があるとは思えない。しかし、何故加護ちゃんがこの映画に反応してしまったのかということを考えると様々なことが読み取れる。

      ペニー・レインは他のグルーピーの女の子達とは違ってロックバンドのミュージシャンなら誰とでも寝るなんてことはしない。あくまでも、そのギタリストの恋人なのであるという誇りを持っていたのだが、そのギタリストからすれば、ペニー・レインは少し特別ではあるが、恋人というよりはやはりグルーピーの女の子の一人だという思いがあり、二人の認識のズレはペニー・レインを傷つける。確認し直すのがメンドイので、ちょっとうろ覚えのままなのだが、他の女性とも関係を持ち続けるギタリストに傷ついた彼女は、ドラッグのオーバードーズか何かで自殺未遂騒動のようなことまで起こし、ボロボロになって家に帰る。ラストシーン、空港のチケットカウンターで彼女は外国行きの搭乗券を買い、さっそうと新しい世界へ飛び出して行くという晴れ晴れとした終わり方をしているので、この映画はさほど悲惨な映画では無い。
      ペニー・レインに憧れる主人公の少年が、友人となっていた相手のギタリストに対し、彼女を守れなかったこと、傷つけたことを責める場面が心を打つ。

      僕の勝手すぎるくらい勝手な妄想だが、加護ちゃんは明らかにペニー・レインに自己を投影しているからこそ、この映画が好きなのだろう。2度目の喫煙報道、さらには大分年上のSOMA CAFEのオーナーのひげ面男との温泉旅行がフライデーされたとき、十七、八の歳とは言え、まだ子供の彼女を何故周りの大人達は守ってやれなかったのかということを感じた人が世間に多かったと思う。やはり高校生くらいの歳であるペニー・レインも自分と一回りも年の離れた大人の男に恋をし、その大人は彼女を守ることができなかった。加護ちゃんはどうやらリストカットまでしていたらしい。全くペニー・レインと重なるでは無いか。

      じゃあ、憧れるだけで彼女を守ることもできなかった、また彼女を守ろうとしなかった大人に対し憤慨した無力な主人公は何を象徴しているのか、それはまさに加護ちゃんファンであるのだろう。

      本人としては当たり障りの無い日記を付けたつもりが、加護ちゃんの背景にあるものを考えると、彼女がこういったサブカル臭の漂う映画が好きだと書いてしまうことが非常に興味深い。

      加護ちゃんも映画のラストシーンのように、さっそうと新しい世界へ旅立てることを願ってやまない。

      淡い青春の痛みを経験した主人公の少年は一回り成長し、やがて自身の夢である音楽ライターへの道を歩み始める。一連の騒動で傷ついた加護ちゃんファン達もきっとそうやって痛みを乗り越えて何者かになっていくのだろうか。


      あの頃ペニー・レインと デラックス・ダブルフィーチャーズ

      ご冗談でしょう、ファインマンさん

      2006.06.27 Tuesday

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        http://wc2006.yahoo.co.jp/result/812738.html

        ご冗談だとお思いでしょうが、サッカーは好きなのです。実は。

        やっぱり面白いな、と昨夜のイタリアXオーストラリア戦で改めて感じ入った。
        サッカーなんて興味無いというスタンスでしばらくいたので、せいぜい日本代表のここ3試合を観たくらいだった。その結果やはりサッカーなんぞつまらん、と思っていたのだが、それは大きな誤解があったようである。サッカーがつまらないのでは無く、日本代表の試合が見世物としてちっとも面白く無いだけだったようだ。

        とりあえずテレビをつけといただけで、1時も過ぎたしそろそろ寝るかと思っていたらもうその試合の面白いこと面白いこと。
        イタリアはDFマテラッティが退場になって10人でのゲームを強いられていた。相手はヒディングだ。イタリアは4年前、ヒディング率いる韓国に決勝トーナメントで敗北していた。その試合、確かトッティが退場になったんだった。もうあの試合もとにかく熱い試合でかなり面白かったのを覚えてる。

        で、今回のイタリア対ヒディングだ。
        0対0のまま、後半に突入早々、10人でのゲームを余儀無くされたイタリアは終始防戦一方だ。交代枠は2枚切っている。対して、ヒディングは交代枠を1枚も使っていない。解説者は、ヒディングが動かないのは延長を見越しているからだと言っていた。延長になると、点が入る入らないに関わらず前後半30分を丸々戦わなくてはならない。10人で、交代枠も残り少ないイタリアにとっては延長戦を戦うわけにはいかないのだ。ヒディングからしてみたら、一人多いのでほっといても攻めの展開を持続して、延長に入ったらFWをガンガン投入して、疲弊しきったイケメン軍団をケチョンケチョンにしてやるのだ、ウッシッシ。などと考えていたのだろう。

        後半30分あたりだろうか、イタリアは最後の交代枠を切って、デルピエロに変えてトッティを投入した。トッティの登場でスタジアムは一気にヒートアップ。超カッコいいんだ、これが。彼が入って、残り15分。イタリアが若干攻撃的になった。10人になった瞬間から残り15分のトッティの出番まではとにかく守りきることだけを考えていたようで、この時間のイタリアのディフェンスは素人目に見ても素晴らしかった。
        しかし、点の入らないまま試合は進み、35分を超えた辺りでまんを持してヒディングはFWを投入してきた。多分延長戦に持ち込むにはそれで充分だったはずだ。
        後半45分を過ぎ、ロスタイムの1分半くらいまではほとんどヒディングの思惑通りに試合は進んでいたのだと思う。ロスタイムは3分だ。イタリアに残された時間はほとんど無い。ここでイタリアの最後の猛攻が始まった。イタリアの中盤以降の選手はほとんどペナルティエリアの周りにいて、イタリアがボールを30秒くらいはキープし続けた。オーストラリアは必死でゴールを守る。僕を含め、試合を観ていた全ての人達はこれがイタリアの最後の攻撃だということは充分に理解できていた。そして、イタリアがここで点を取ることができなければ、それがそのままオーストラリアの勝利となることも素人目に観ても理解できた。もちろん、延長の30分がどうなるかはわからない。でも、10人で交代枠を使い切ってしまい、なおかつトッティがコンディション不調のままで30分走り続け、ゴールを決めることはかなり難しい。何度も言うが、素人の僕にだってそんなことくらいはわかる。ボロボロになったイタリアはかくして、またもヒディングに辛酸をなめることとなる。しかも、韓国とオーストラリアというサッカー後進国にW杯という最高の舞台で煮え湯を呑まされるというイタリア人にとって忘れることのできない屈辱の日となるのはもう目前だった。
        イタリアの最後の攻撃。ペナルティエリアラインギリギリの場所でノーマークになったトッティにボールが渡った。スタジアムは大歓声に包まれる。しかし、トッティのシュートを打てなかった。トッティはヒールで斜め後ろにパスを出した。イタリアの選手が後ろから走り込んでくる。だが届かない。タッチの差でオーストラリアの選手が大きくボールを蹴り、ボールはハーフラインを超え、無情にもイタリアの陣地まで戻ってきてしまった。
        もう試合は終わりだ。延長戦を観てしまったら3時くらいになってしまうので僕ももう寝ることにしよう。攻め上がっていたイタリアの選手は必死で戻る。オーストラリアの陣地から大半の選手が引き上げた。ボールに触ったイタリアのDFがもう一度ボールを大きく左サイドに蹴りだした。DFのファビオ・グロッソがただ一人ボールに追いついた。たった一人で突破するしか無いグロッソは左サイドから一人抜いて一気にペナルティエリア内まで切り込んだ。センタリングをあげようにもイタリアの選手はまだ攻め上がっていない。グロッソだけでゴールを決める意外に道は無い。オーストラリアのDFルーカス・ニールのスライディング。ニールの足にボールは当たらず、ニールはそのまま滑り倒れた。そしてニールの体につまづいたグロッソは倒れ込み・・・

        ファウルの基準というのはよくわからないが、決してニールの故意のファウルでは無かった。かといってグロッソがファウルを意図的にもらいにいったとも思えなかった。彼にはボール以外見えていないようで、結果的にニールにつまづいた。日本戦が終わった後、有識者は口々に「もっと気迫を見せてほしかった。魂がうんちゃらかんちゃら・・」と言っていたが、いまいちピンと来ていなかった。だが、このプレーを見て少しだけ理解した。微妙なジャッジではあった。だが、審判はイタリアの勝利だと判断したのだろう。気迫が勝利をもたらすとはまさにこのことだ。この試合はイタリアの判定勝ちと言っても良いかも知れない。

        ヒディングという稀代の策士が策に溺れたわけでは無いと思う。確率からいって、戦力を温存して延長に持ち込んだ方が勝利する確率はグッと高まると判断しただけだったのだ。

        終始、イタリア寄りで試合を観戦していたが、トッティが最後のPKを蹴る瞬間、別のことを夢想した。もう時間は過ぎているのでトッティがゴールを決めて試合は終わるということはわかっていた。でも、もしあと1分あるならば1点ビハインドのオーストラリアはどのような攻撃をしただろうか?ヒディングはどのような策を施したろうか?もしかしたら最後の1分の為にFWを二人投入して、GKすら攻撃に参加するという前代未聞の全員攻撃に転じていたかも知れないのだ。

        何故だか、ヒディングがキャプテン翼の吉良監督と重なって見えてくる。最近ヤングジャンプで連載しているキャプテン翼では若島津健がなんとFWとしてフィールドに立ったのだ。

        果たして、ヒディングに、オーストラリアに最後の時間は与えられずに試合は終わった。あまりの面白さにしばらく寝付けなかった。何故日本代表の試合でこのような物語が味わえなかったのか。勝ち負けなんかどうでもいいから、1試合でもこういう試合が見たかった。戦術的なことは良くわからないし、サッカーを良く知る人から言わせれば、単なる泥試合なのかも知れないけど、泥試合だって人の心を打つには充分だ。

        『真夜中の大カマ騒ぎ』に関して

        2005.07.26 Tuesday

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          今年のFNS25時間テレビのラインナップをざっと見回す限り、伝説となった昨年の27時間に比べると、どうしても見劣りするものであった。
          しかしながら、昨年の奇跡の象徴とも言える「真夜中の大カマ騒ぎ」は今年も引き続きラインナップされているのであるから、何は無くともこれだけは見逃すわけにはいかない。

          これから先、芸能人の呼称は呼び捨てで統一させていただく。偉そうに聞こえてしまうのだが、業界人でも無いのに、君、さん、氏などといった敬称を付けるのはどう考えてもおかしいと思うからだ。
          芸能人のことを文章に書くときはこの呼び方の線引きが非常に難しい。

          昨年の27時間テレビはあくまでも『めちゃイケ』をベースとして、「マジオネア」やら、「笑わず嫌い王」やらと、『めちゃイケ』というバラエティ番組の27時間版の中の「大カマ騒ぎ」という位置づけであったから、「大カマ騒ぎ」までの流れを見ていれば、その面白さは更に倍増するという効果もあっての奇跡だった。

          今年は、やや唐突に「大カマ騒ぎ」がねじ込まれており、そのワンコーナーだけ抽出して観ても果たしてどうなのだろうかという不安感は拭えない。

          だが、そんな不安など簡単に吹き消すほどの素晴らしい展開で終盤まで一気に突き進んだ。僕は家で一人でゲラゲラと笑いながら、終了時には一人スタンディングオベーションをしなければいけないほどの賛辞を送りたい気持ちでいっぱいだったのだ。

          それなのに、最大級の賛辞に値する出来に今年はならなかった。

          今年の「大カマ騒ぎ」、最後の山として用意されていたのは、フジテレビの女性社員の登場だった。彼女はバラエティのADを経て、最近社会部に移動になったらしく、かなりの美人であった。その場の設定では、彼女はほとほとバラエティに嫌気が指し、さんま批判から始まり、ひいては芸人という存在を見下し、否定する存在として登場した。高飛車な美人としてキャラ付けされた彼女は台本通り、表情を崩さないよう、芸人達に目線をやらないよう、極力しゃべり過ぎないようがんばっているのがわかる。
          そして、唯一彼女に特異付けられたキャラクターとして、次長課長の河本のタンバリン芸にのみ反応をする、ということを軸にその最後の山は進んでいったのだが、その彼女の登場と共に、それまでの、数あるバラエティの中でもトップクラスを誇っていたであろうスピードは一気に減退し、結局僕はそのくだりではくすりとも笑うことができなかったのだ。

          「大カマ騒ぎ」といえども、綿密な打ち合わせのもと、ある程度しっかりしたシナリオに基づいて進行されているであろう。芸人達が女装し、自分の彼氏の話として、第3者的視線から語るという基本設定があるからこそ、どきつい話すらも笑いに変えることができるのだろう。だからこそ、この番組はフェスティバルならではの贅沢な群衆コントであるのだ。だが、それを成立させるのは台本の存在を全く感じさせない芸人達の手腕があってこそのものだ。フジの女性社員はバラエティの現場にいたのだから、かなりバラエティというものを知り尽くしたプロではあるだろう。だが、彼女はタレントでは無い。やはりテレビに出て、あの百戦錬磨の芸人達を前に、自然に与えられた役割を演じるとことを求めるのは酷な話だ。彼女のプロとしての責任感が台本に忠実であったことであり、タレントではない彼女のペースに合わせてしまったがゆえに、最後の山がどうにも窮屈に感じてしまったのだ。

          さらに言えば、最後の山はさんまに対する批判から始まる。ということは、さんまの存在は始めから台本に組み込まれていたことになる。もちろん、「大カマ騒ぎ」にとって、さんまの存在は欠かせないものだ。しかし、あのコーナーはまず、ナイナイ以下若手だけのコーナーであり、さんまはあくまでも、その前の自分の担当するコーナーからの流れで乱入しているのだという基本線を崩してほしくは無いのだ。「ただ見てるだけだから」とさんまは言うが、結局さんまが全ておいしい所をさらって、他の芸人達はなすすべも無い、という構造ありきで「大カマ騒ぎ」は行われるべきだ。もちろん、視聴者の立場からでも、さんまは「大カマ騒ぎ」のメンバーの一員だということは充分にわかった上でのお約束だけは絶対に守ってほしいのだ。だからこそ、今年の「大カマ騒ぎ」は、最後にさんまが進行上にしっかり組み込まれているということを大っぴらにアピールしてしまったがゆえに、昨年とは大きく趣きを変えてしまったという印象が拭えないのだ。

          基本的なコード進行のみを決めておいて、あとはその枠組みの中でいかに好き勝手に演奏するか。バラエティの中でも、最もジャズを感じさせるのが、この『大カマ騒ぎ』なのだ。しかし、そのコード進行をわざわざ聴衆にわかりやすく説明する必要は無い。今回、タレントでない者を登場させたことによって、そのコード進行が非常にわかりやすく伝わってしまったのだ。
          女性社員のくだりの中で、場がグダグダな空気になってきた時、極楽とんぼの山本が、「淳の暴露ネタもう一ついきま〜す」といったような事を叫ぶ。それでまた、場が少し混乱するのだが、山本は「視聴者はこっちの方が聴きたいよ」などといったことを叫んだ。これは、停滞してしまった空間に対する苛立ちから来ら言葉だろうし、その時の僕の心境とも見事にシンクロした言葉だった。

          そして、もう一つ。僕が薄々お笑い番組に感じていたことが確信に変わった。
          それは、顔立ちの整った女性は必要ないということだ。

          僕は、他人と比べてもかなりのナイナイフリークである自信だけがある。今回偉そうにお笑いについて語ってしまっているが、マニアックな芸人だとか、ちょっとアーティスティックな芸人(ラーメンズとかそんなの)よりも遥かに、メジャーでベタベタなナイナイが大好きだ。
          そんな僕でも、ナイナイをず〜っと見続けて唯一に矢部に関して気に食わないところがある(ちなみに岡村に関しては全く気に食わないところなど無い。今回、全くもって存在感を示すことができなかったが、それも含めて岡村の全てが素晴らしいと思う)。矢部は、女性(美醜に関わらず)に対して、時々いやらしいまでの優しさというか、気遣いを見せるときがある。それが、こうしたドギツイ笑いを求められているときには何ともはがゆい。
          普段の番組ならば良いのだが、僕は「大カマ騒ぎ」に関しては、基本的に普通の女の子だったらドン引きするような下品で下世話な笑いを求めていた。だから、序盤からカンニング竹山が「アナル姉さん」の話を始めた時に、今回は昨年を超えるのではないかと勝手に大きな期待を抱いてしまったのだ。
          あの場に、美人の女性社員を登場させるのならば、彼女の存在をさっさと無視してカオスに突入するか、あるいは、彼女を徹底的に痛めつけ泣かせるくらいの所まで言ってほしかったなあというのが正直な感想だ。


          本論はここまでで、その他気になった点をあげる。
          今回SMAPの中居正広がいじられる立場になったくだりがあったが、そこで中居はどうして良いかわからなくなり、そこでもスピードが落ちてしまった瞬間があった。でも、これが芸人に近づきすぎたジャニーズが、改めて芸人とは全く違う存在なのだと感じさせられる場面でもあり、どこかお笑いに対する敬意すら感じ取れて、個人的には少し好感度があがったりした。でも、あの舞台の真ん中に中居正広を引き上げるというなら、彼にもしっかり女装させて、何らかのキャラ付けをさせてあげなげればさすがにかわいそうだろうとも感じた。

          その中居のくだりでグダグダしかけた雰囲気を見事に立て直したのが、FUJIWARAの原西だ。今回のMVPは彼では無いかと僕は思う。『大カマ騒ぎ』の魅力の一つは、「戦場」だと表向きは言っておきながらも、芸人達がそれぞれ、他の出演者達に優しい気配りを見せる瞬間がある点だ。群衆コントの中で、本当の人間関係がほんの少し垣間見える、それが『大カマ騒ぎ』が多くのお笑い好きに支持された要因の一つでは無いだろうか。

          出演者がかなり多かったのだが、今回は異分子と呼べる存在がいなかった。昨年の面白さの一つはネプチューンの存在だった。ある程度見慣れた吉本勢の中に、その場に馴染めていないネプチューンが必死で居場所を見つけようと奮闘する様、そして他の吉本芸人が、ネプチューンをどうにか立ててあげようとする気配り。その姿には美しさすら感じたものだ。それに比べると今回は、昨年のネプチューンにあたる存在がいなかったのは残念な点の一つである。

          ほとんど、発言すらしなかった劇団ひとりが最後に矢部にふられて、「もうお笑いやめます。」の発言で奇麗にオチて終わったのは結構良い終わり方かなと思ったけど、最後までまとまらずに打ち切られてしまうという方がやっぱり良かったなあとも思う。

          何にしろ、来年も楽しみだ。昨年のやつはDVD化してくれないかしら。

          宮藤官九郎「タイガー&ドラゴン」に関して

          2005.01.10 Monday

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            タイガー&ドラゴン公式サイト

            主題歌クレイジーケンバンド

            すげえ・・・びっくりしました。クドカンドラマでは同じみの役者がオールスター出演という感じというのもありますが、こんなにサラッと大傑作が出てくるとは・・・
            あまりにも見事なくらい面白すぎ。

            クドカン久々のテレビドラマ作品でしたが、やっぱりこの人の作品はテレビで一番生きてくると思います。「ゼブラーマン」「69」と、それまでの大傑作の数々(「IWGP」「木更津〜」「マンハッタン〜」等)と比較すると、正直う〜ん、という感じでした(「ドラッグストアガール」は良かったですが)。
            映画が上でテレビが下とかいうことがまかりとおる時代はホント終わったと思います(とはいっても、「ラストクリスマス」とかは結局ひどい代物でした、「ハッ?」とかいう感じです)。

            クドカン脚本の何が良いかと考えると、台詞まわしだとか、ギャグだとかそういうのもあるかも知れませんが、やはりそれ以前の基本設定がかなりしっかりしているのだと思います。物語の基本が、3行くらいで説明できるくらいシンプルで魅力的なんだと思います。

            笑いのセンスゼロのヤクザが、落語家になりたがるというような物語の骨子は、全然連続ドラマで引っ張れる題材なだけに2時間ドラマではもったいないくらい贅沢です。とはいっても、役者が豪華すぎるのでさすがに連ドラではちょっと難しいとは思います。「オーシャンズ12」に匹敵する豪華さですね。

            クライマックスの展開が、青森県民というか、東北人をバカにしてるのではないかという批判もありそうですが、クドカン自体が、宮城のド田舎出身なのでちっとも嫌みじゃありません。さすがみやぎ夢大使ですね。僕は宮城の都会出身です。それはどうでもいいことです。

            基本的に若者受けの良いクドカンでしたが、このドラマで一つレベルがあがった気がします。この先どれだけ高い年齢層に受け入れられていくのか非常に楽しみです。国民的な大作家になりそうな予感が今回のドラマにはありました。

            僕は一人でテレビを観ながらしゃべったりは絶対しない人間でしたが、思わず本気で「すげえ・・・」声をもらしてしまいました。
            ああ、面白かった。お腹いっぱい。
            ごちそうさまでした。
            イイーネッ!グッド

            大河ドラマ『新撰組!』最終回に関して

            2004.12.13 Monday

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              ※大河ドラマ『新撰組!』の最終回の内容に触れていますので、ビデオなどにとってまだ観ていないという方は読まないでくださいませ。


              新選組 ! 完全版 第壱集 DVD-BOX

              大河ドラマ『新撰組!』が昨日最終回を迎えました。香取慎吾演じる、新撰組局長近藤勇の斬首で(正確には処刑人が刀を振り下ろすまで)、そのまま「完」と表示され、ドラマが終わるという、まさに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なラストは、全国の慎吾ちゃんファンが涙したことでしょう。

              僕は「ほぼ日刊イトイ新聞」を毎日覗いているのですが、その中の企画で、糸井重里とその他2名が、毎週『新撰組!』を観て、その回について語り合うという企画がありました。彼ら3人は途中から『新撰組!』を観るのですが、それにも関わらず、異常な盛り上がりを見せるのです。僕は『新撰組!』など全く観ていなかったのですが、毎週「ほぽ日」のそのページを観ているうちに新撰組そのものに興味が湧いてきて、10月に入った頃でしょうか?ついに大河ドラマに手を出してしまったのです。

              10月からですから、ドラマ自体は4分の3程進んでしまっています。芹沢鴨の暗殺も、池田屋も、山南敬介の切腹も終わった後でした。新撰組を語る上で欠かせないエピソードをことごとく見逃しておきながらも、見事にこのドラマにはまってしまいました。

              僕が観た終盤は、新撰組が次第に崩壊していく過程でした。歴史ドラマは結末がわかっているだけに、一話一話が進んでいくにつれて、どんどん重くなっていきます。毎週のように重要人物が死んでいきます。坂本竜馬が暗殺されたときは結構へこみました。藤堂平助、武田観柳斎、伊藤甲子太郎、井上源三郎・・・あれよあれよと皆死んでしまいました。


              新選組 ! 完全版 第弐集 DVD-BOX

              最終回は、局長近藤勇の処刑で終わりますが、それ以外にも心重くなる展開が待ってました。三谷幸喜脚本のオリジナルキャラである、中村獅童演じる、滝本捨介と、優香演じるお考の死です。

              捨介は、近藤、土方と共に多摩からついてきて、何かと物語を引っ掻き回す、ピエロ的な役割を演じた史実には登場しない人物です。彼の存在が『新撰組!』という大河ドラマにどこかコメディ的な要素を加えており、そこに嫌気がさした人も数多くいることでしょう。しかし、三谷幸喜の『新撰組!』では非常に重要な役だったと思います。その彼が、最後は処刑の決まった近藤を助けようと、新撰組の衣装を着て官軍に一人で乗り込むのですが、あっけなく殺されてしまいます。

              お考は、後半病に倒れる沖田総司の看病に付きます。明るい性格で、病に伏せる沖田にとって癒しの存在でもあり、二人の微妙ないちゃつき加減が、ラブコメ要素を加え、重みを増す物語において、"救い"のような役割を果たしていました。
              最終回では、二人の距離が少し縮まるような展開をみせたので、このドラマの中では沖田の死はてっきり描かれずに終わるのでは無いかと思いました。近藤勇の処刑という事実は揺るがないけど、寿命が長くないにしても、沖田とお考の幸せそうなエピソードを残すことで、物語がすう〜っと軽くなるのではないかと思いました。
              ところが、僕の個人的な想いなどはもろくも崩れ去り、どこぞの輩が沖田の居場所を突きとめ、沖田の命を狙いにきます。病床に伏せる沖田を守ろうと、お考は輩の前に立ちはだかりますが、無残にもお考は斬られてしまいます。激怒した沖田は力を振り絞って輩を全員倒しますが、お考は既に息絶えており、沖田も無理をして、剣を振るったので、血を吐いて倒れてしまいます。
              沖田はその場では一命を取り留めるのですが、結局近藤勇の処刑から2ヶ月程して帰らぬ人となるのです。



              優香

              お考が死んで、生々しく畳に血が残っている部屋で、一命をとりとめた沖田は布団の上にいます。ふと血のたまりの方を見ると、一匹の蟻がおぼれていました。以前、沖田が何気なく蟻をつぶしたのを見て、生き物を無駄に殺してはいけないと沖田に対して怒りました。新撰組最強の剣士として、多くの人間を斬ってきた沖田は、この最後の場面では、お考の血の中で溺れる蟻を助けます。三谷ドラマで沖田総司が描かれるのはここまでです。

              沖田は近藤局長の処刑を知らずに死んだそうです。処刑前に会いに来た土方は沖田に新撰組はそれぞれバラバラになり、事実上解散していることは言いませんでした。その後、沖田は新撰組の仲間に会うことは無かったでしょう。仮にお考に看取られて沖田が死ぬというシーンが描かれていたら物語の後味は全く違っていました。しかし、お考が先に死に、沖田が生き残るという最も残酷な結末が最終回に待っていたのです。

              歴史上の人物達の運命は既に決まっています。新撰組が官軍に勝つことなどはありえません。近藤と土方は千葉の流山が今生の別れとなることも変えることはできません。しかし、中村獅童や優香の役柄は、三谷幸喜オリジナルのキャラなのでしょうから、生死は三谷幸喜しだいです。物語に明るさを加えている2人を生かしておけば、もう少し清々しく『新撰組!』は終わったことでしょう。しかし、三谷幸喜は彼ら2人が生きることを許しませんでした。NHKのドラマでこのような悲劇的な終わらせ方はなかなか無いことだと思います。そういった意味でもこのドラマは最初から最後までかなり挑戦的なドラマだったと言えるでしょう。

              ホントは山本耕史の土方歳三や、オダギリジョーの斉藤一、ドンドコドンのぐっさんの永倉新八など、それぞれのキャラクターがあまりにも魅力的で(野田秀樹の勝海舟も凄かった)、ひとつひとつたんまりと語りたいのですが、最終回を観たら藤原竜也の沖田が頭から離れませんでした。

              しかし、始めから観てない僕が言うのもあれですが、やはりこのドラマは時代の変わり目に自らの誇りをかけて戦った男達の熱い友情のドラマであり、青春のドラマです。古くから新撰組のドラマに慣れ親しんだ世代には違和感があったようですが、僕などはちゃんと新撰組のドラマに触れるのは初めてだったので、このような魅力的な人々が日本にいたのか、と改めて感激してしまいました。

              三鷹に近藤勇の墓があるそうなので、チャリンコでひとっ走り詣でに行かなければなりませんね。僕も局長のように誇り高い人生を歩もうと思いました(何せ、昨日観たばっかりですから。ロッキーを観てシャドウボクシングをやりだすのと同じことと思ってくださいませ)。

              DVDの発売も決定しているので、もう一度今度は始めから見直そうと思います。まだ観てない人は観た方が良いですよ。僕は来年の今ごろになってもいまだに『新撰組!』とか言ってるかもしれません。

              総集編は12月26日16:45〜22:15分まで(途中休憩あり)放送されます。必見!


              『燃えよ剣』

              今、僕の枕元には、司馬遼太郎の『燃えよ剣』があります。まずはこの小説で土方歳三の生涯を追っかけようと思います。


              株 新撰組

              織田裕二「ラストクリスマス」に関して

              2004.10.26 Tuesday

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                『ラストクリスマス』
                今クールの月9ドラマ「ラストクリスマス」、毎週楽しみにみております。
                テレビドラマなんてちゃんと観るのは久々なのですが、このドラマ、ホントたまらないです。
                何かもう落ち着いてテレビの前で座っては観てられません。
                3分毎くらいにやってくるのではないかというほど、ロマンティックな場面のあめあられ。
                やっぱテレビドラマは、もとい、月9はこうでなくちゃ、というお手本のようなドラマです。

                今クールのドラマでは「黒皮の手帖」などが、裏の「渡鬼」に視聴率で勝ったほど話題を集めているようですが、「黒皮の手帖」が、いわゆる“少し金をかけた昼ドラ”的などろどろとした要素で視聴率を集めているのとは対象的に「ラストクリスマス」はいたって直球です。
                偶然隣同士に引越してきた男女が、実は同じ会社の社員で、最初はいがみ合いつつも次第に仲を深め、互いの恋愛を応援するなどしているうちに、やがてホントの自分の気持ちに気づき、“オレがアイツでアイツがオレで”的な感じで、最後はブチューッとハッピーエンド。シェイクスピアや竹取物語と並ぶのではないかというほど古典的なプロットに、主演のキャストの魅力だけで勝負を賭けてきました。

                「ラストクリスマス」を観ていると織田裕二という俳優の凄さを改めて感じることができます。12月の終わりまで、月曜9時は織田裕二アワーであるといっても過言ではないでしょう。
                織田祐二の凄さは、何をやっても織田裕二であるということです。どんな角度から見ても、上から読んでも、下から読んでも織田裕二であり、“カンチ”であり、“青島”であるのです。
                もはや織田祐二が織田裕二であること以外に言葉はいりません。日本に人気俳優は数多くいれども、このような俳優は滅多にいません。


                織田裕二

                かねてから言われている、ゲイだという噂を除けば、スキャンダルらしいスキャンダルは特になく、出るドラマに外れ無し。人当たりもよさそうで、正義感にあふれるさわやか男。「東京ラブストーリー」の頃から変わらないクリーンなイメージ。時々、映画で大コケしたりしてますが、それすら彼のイメージを決定的に貶めるほどの致命傷にはなりえません。
                これってまさにトム・クルーズです。トム・クルーズもどんな映画に出ようが結局はトム・クルーズ以外の何者にもなりえません。そして、徹底した自己イメージの管理能力の高さ、クリーンなイメージ。織田裕二との相違点は、トムは共演者キラーのドスケベエだということでしょうか。

                織田裕二がゲイなのかどうかはわかりませんが、仮にそうだったとしてそんなに彼のイメージを傷つけることになるのかは疑問です。むしろ、「アイワズゲイ」と記者会見で、カミングアウトしてしまった、金メダリスト有森裕子さんの元夫、“ガブ”ことガブリエルのように、記者会見でカミングアウト(この言葉は“ガブ”から定着しましたね)してしまえば、日本中に一気にゲイカルチャーが浸透していくのではないかとさえ思います。

                織田裕二は現在30代後半だと思います。ドラマを観ていて僕は、ふと10年、いやさ、15年後、彼が東京都知事になっているのではないかという幻想を抱きました。このようなクリーンで、正義感の強いイメージを持つ人物を民主党あたりがほっておくわけないと思うのです。既に何らかのオファーがあったとしても驚くべきことではありません。
                海の向こうではターミネーターが州知事になっているわけですから、あんな筋肉の塊に比べたら織田裕二が都知事になることの方がよほど現実的なのです。森田健作だって国会議員になりました。西川きよしもなりました。前知事が青島幸男であり、織田裕二は湾岸署の青島であったことは単なる偶然の一致でしょうか?
                彼が、国政に打って出る日もそう遠くは無いかもしれません。

                織田裕二が月9でラブコメをやるということ、それこそがこのドラマの意味であり、そこに面白さを見出せない人は観ないほうが良い思います。長々と語ってきたように、織田裕二が織田裕二であるからこそ成立するドラマであり、いつ矢田亜希子がとち狂って“カンチ”と言い出しはしないだろうかというスリルや、ノスタルジイが全編に散りばめられています。

                また、死語になって久しい、“トレンディドラマ”の定番でしょうが、毎週のクライマックスシーンには必ず主題歌なりの音楽が流れます。「東京ラブストーリー」での小田和正『ラブストーリーは突然に』での、空気を切り裂くようなソリッドな“トゥルン、ジャカジャ〜ン”というイントロの流れる瞬間や、「振り返れば奴がいる」でのチャゲアス『YAH YAH YAH』の“ジャ〜ン、ジャンジャ〜ン、ジャ、ジャジャジャ〜ン”という大げさなイントロが流れる瞬間。もうお約束なので観てる方も“来るぞ来るぞ”とわかっていても、主題歌のイントロを聴く瞬間のカタルシスが、全盛期のトレンディドラマにあったわけです。

                時代背景の違いからか、幾分様相は変わっていますが、「ラストクリスマス」ではそうした毎週のクライマックスシーンのカタルシスのようなものを取り戻したかのようにも思えます。



                ラストクリスマス
                文字通り、主題歌である『ラストクリスマス』が流れるわけですが、オープニングでは織田裕二の歌うバージョンなのに、本編のクライマックスでは、オリジナルのワムのバージョンが流されます。静かで柔らかく優しげな音色でフェードインするこの曲は、小田和正やチャゲアスの曲のようにイントロとサビの部分に最高潮のテンションが配置されていません。

                延々と基本の4つのコードが循環するこの曲『ラストクリスマス』は一気に気持ちを高めるのではなく、じょじょに視聴者(僕)の気持ちを高めていきます。けなげな矢田亜希子の姿や、織田裕二のなんとも言えない苦虫を噛み潰したような顔とワムの曲があいまって、クリスマスシーズンの、あの楽しさと切なさが同居したような、年末の何とも言えないようなあの気分が思い出されます。『ラストクリスマス』のコード進行では最後のコードで曲は終われません。だから、オリジナルは循環コードでフェードアウトして終わっていきます。できればいつまでも続いて欲しい年末のあのあわただしさ、クリスマスの華やかな気分、しかし、曲がフェードアウトしていくように正月はやってきます。いつのまにか雪は溶けてしまいます。ドラマは終わります。

                乱暴なまでに何らかの結論をその都度出していた全盛期の“トレンディドラマ”達に比べると、「ラストクリスマス」はもう少しぬるいところに落ち着こうとしているのかも知れません。その点において、あの古典的なプロットと言えどもやはりどこか現代的であるとも思えるのです。(時事的な話題を扱っても「金八」の方が古典的なドラマなのでしょう。)

                ちなみに、オープニングでは、織田裕二の『ラストクリスマス』ですが、エンディングでも織田裕二は、ワム『ウェイクミーアップ ゴーゴー』をカバーしています。世界で最も有名なゲイの一人であるジョージ・マイケル率いるワムの曲をカバーするというのは、世間に広まっている織田裕二の疑惑に対するジョークのようにも思えますが、笑えません。
                次は、是非クイーンのカバーをしてみては?

                第3話で唯一声に出して笑ってしまった所があります。MEGUMIが金に汚い女の子の役で出ているのですが、実は家にはまだ幼い兄弟がたくさん居て、寝たきりの父親がいるというところです。家族を守るために、金に対してものすごく執着があったわけです。さすがにこれは無いだろうと思いましたが、こういうコントのような設定も、織田裕二のドラマだからこそ成立します。坂口憲二が主役だったらどうしようもない時代錯誤なドラマになるところでした。

                年末にぴったりな、幸せな雰囲気が満載のドラマなのですが、現実の世界では、台風だったり地震だったりと厳しい状況が続いています。もしかしたら、平和ボケしたドラマなんて見てる場合じゃないという風潮になるかも知れませんし、その逆もあるやも知れません。社会状況がこのドラマにどのように響くのか気になるところです。

                最後に、「バネルクイズ アタック25」でおなじみの児玉清が医者の役で出ているのですが、彼が「アタックあるのみですよ。」なんて台詞を言っていたのは明らかにねらっているので、この先あと何回「アタック」という言葉言うのかというのも見所の一つです。


                矢田亜希子

                それから矢田亜希子が部屋ではジャージ姿なんですが、それが非常にかわゆいです。
                矢田亜希子っていいですね。なんか性格が悪そうな所もいいです。かわいくて性格のいい娘は最高ですが、かわいいのに性格の悪い娘も最高です。

                さとう珠緒に見る芸能界の紆余曲折

                2004.10.18 Monday

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                  今さら何を・・・と思われるのかも知れないが。最近のさとう珠緒が気になる。
                  どう気になるかというと、さとう珠緒は明らかに以前とは何かが違う。
                  よくも悪くも自分の特徴であった部分をことさらに強調し始めたのである。

                  いわゆる“ぶりっ子”キャラであったさとう珠緒は、テレビの中で、雨に濡れた子犬のようにきらきらとした目で男性を見つめていた。瞳に水分が多いのか、目薬を持ち歩いているのかはわからないが、常に瞳が涙ぐんでいるかのように、きらきらと光っている。
                  あれだけかわいい女の子につぶらな瞳で見つめられたら男達はヘロヘロになるだろう。

                  かくして、さとう珠緒は瞳の力のみで芸能界をのし上がっていったかのように見えていた。いかにも裏表のありそうな“ぶりっ子”キャラも同姓の反感を買うが、それはそれでわかりやすいので、面白い。
                  よって、そのようなさとう珠緒の“ぶりっ子”ぶりに、芸人などはしばしば面白がってつついていたのである。

                  時は過ぎて2004年。またまたお笑いブーム到来によって、テレビはバラエティ番組であふれ返っている状況だが、さとう珠緒にとっては決して景気の良いご時世ではなかった。いつのまにやら看板だったはずの「王様のブランチ」の司会を優香に奪われ、深夜の競馬番組も吉岡美穂になっていた。



                  気づけばもう30代になっている。役者としての才能は残念ながら無い。かわいいことはかわいいが、いつまでもそれだけでは通用するはずもない。“ぶりっ子”キャラをどうにかした方が良いはずなのだが、彼女はむしろそこに対して意識的になってしまった。自分をいじってくれ、いじってくれ、と男性タレントに対して哀願するように相手の目をじっと見つめる姿が不自然すぎて、見ていて痛々しさを感じてしまう。若いときはもっと自然であったのに。

                  少し前までは、バラエティ番組の中で、女性タレントは上手い具合に棲み分けができていた。若くて、漫画雑誌のグラビアを飾っているような女の子は、番組の飾りのようなポジションであり、そのタレント自体に特に面白さのようなものを求められてはいなかった。それなりの狡猾さを求められるのは、それよりももっと年をとった女性タレントであり、彼女達の条件として、結婚とかが気になるのだが、男っ気が全然無いといったようなキャラ作りは不可欠であった。

                  しかし、最近は雑誌のグラビアを飾るような容姿で売っていたはずの女の子達の中にも、相当口の立つ人達が増え、彼女達は、巧みに限度を見極めながら、軽い“ヨゴレ”のようなものまで軽やかに演じてしまう。(イエローキャブのタレントとか、若槻千夏とかその辺り。モーニング娘。の一部のメンバーなども、まだ若いのにその仕事ぶりはプロフェッショナルと呼ぶにふさわしい。)もはや、若さだけでは売り物にならないのだ。

                  そうなると、さとう珠緒などは、もはや若いわけでも無いし、話術に魅力があるわけでもない、そのような中途半端な位置のタレントの居場所は少なくなってくる。
                  そこで、どうやら彼女は“ぶりっ子”キャラに加えて、“不思議ちゃん”キャラを今さら付け加えようと試みているようにも思える。しかし、“ぶりっ子”と“不思議ちゃん”は似て非なるものである。(同じように“不思議ちゃん”と“天然”も、似て非なるものだ。)
                  “不思議ちゃん”市場は、時流に乗れば、急激な値上がりを見せるのだが、値下がりの速度も早い。しかも、多数の人間がその市場に参入できるわけでなく、市場にいるもの同士で熾烈な潰し合いが繰り広げられる仁義無きサバイバルフィールドだ。よって、そのフィールドで生き残っていくためには天才的なスキルを要するのである。
                  ましてや、現在“不思議ちゃん”市場は、小倉優子というモンスターによって、ぺんぺん草も生える隙は無いというのに、そこに新たに参入するということは自殺行為に等しい。



                  そう考えると、“不思議ちゃん”市場から早々に見切りをつけ、地道に女優としての実力を蓄えることを選択した釈由美子は賢かった。
                  「王様のブランチ」という番組は、寺脇康文も司会だが、どう考えても寺脇康文の番組とは思えない。誰の番組かと問われれば、さとう珠緒の番組だったのだ。「王様のブランチ」さえあれば自分の芸能界の居場所は確保できると思ってもいただろう。まさか、自分だけが番組から降りることになるとは想像もしていなかったかも知れない。
                  元ブラン娘であったはずの、坂下千里子が今やバラエティクイーンとなっていることを考えると時の流れの残酷さを感じずにはいられない。

                  もちろん、今だって彼女の姿をテレビでよく目にしている。しかし、今のままでは近い将来お茶の間から消えてしまうような気がしてならない。
                  お茶の間としては、さとう珠緒がそれなりの苦労をしてきたことが感じ取れるだけに今の状態が痛々しく見えてしょうがないのだ。

                  「ブランチ」だけがテレビではありません。まだまだ、がんばれる場所はたくさんあるでしょう。
                  とりあえず彼女がヨゴレてしまわないことを切に願います。

                  それからどうして最近になってロンブーが他の番組にゲストとしてたくさん出てくるようになったのかも気になります。何かあったのでしょうか?

                  2004年〜チェッカーズの乱

                  2004.09.17 Friday

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                    タカモクの本『チェッカーズ』

                    チェッカーズ内紛

                    が何故にこんなに面白いのかというと、ネーミングなんだと思います。
                    不謹慎な話ですがポイントは、死んだのが、藤井兄弟でもリーダーの竹内亨でもなく“クロベエ”という一番の面白ニックネームを付けられた男だったということです。
                    さっき、ヤフーニュースを見たら見出しが、“クロベエ遺言「みんな仲良く」”というものが出てました。
                    切ない話のはずなんですが、どう考えても面白くてしょうがない。

                    思えば、疎遠になっていたかつての仲間が、一人の死をきっかけに再結集するが、もうかつてのような関係ではなかった・・・王道ドラマのパターンですね。
                    というか、さっしのよい方ならお分かりでしょうが、まさに90年代の名作ドラマ、野島伸二脚本の『愛という名のもとに』ではないですか。
                    あのドラマでは、唐沢寿明も、江口洋介も鈴木保奈美も死ぬわけはありません。死ぬのはクサナギツヨシ以前のミスターいい人、“中野秀雄a.k.a.チョロ”です。(実際、彼を騙すことになるルビー・モレノは、ドラマの中で「クラタサン、イイヒトネ」のセリフを連発してました。)

                    しかし、元チェッカーズ達の確執は、クロベエの死をもってしても簡単には解決しないようです。
                    この問題で面白いのが、いつのまにやらフミヤ派とタカモク派に分かれてしまっているところでしょう。フミヤ派(タカモクはフミヤ一人に対して納得できない思いを抱えているようにも見えるので、厳密には派閥などないのかもしれないですが)は、フミヤ、尚之、竹内亨ともう一人よく知らない人で、タカモク派は、タカモクと鶴久政治です(クロベエもタカモク派に入るかな?)。

                    このラインナップを見る限り、どう考えてもフミヤ派が強い。タカモク派は名前負けしてます。

                    だって、フミヤ、ナオユキ、トオル・・・ってこっちの方が名前がかっこいいです。特にフミヤなんて名前は、いかにも主人公的な名前ですよ。タクヤ、セイヤ、ショーヤ、リュウヤ・・・とかそういう○○ヤという名前は、ヤンキー漫画の二枚目キャラの名前ですよね。ナイフみたいに尖って、触るモノ皆傷つけるのだけど、その危うさが逆に女の子には魅力的で。

                    一方、タカモク派は残念なことになってます。
                    タカモク、ツルク、クロベエ・・・どう考えても勝てる名前ではないです。
                    ヤンキー漫画で言えば、主人公達のいる高校と、そのライバルの高校があるとして、そのどちらからもバカにされる弱小校の3枚目ヤンキーみたいです。物語に笑いの要素を加えるためのピエロです。

                    世論の大半がタカモク派を支持するというのも納得です。基本的に弱い方を応援しますから。
                    フミヤ派が武士なら、タカモク派は農民です。かなうはずがないです。
                    更に鶴久氏の存在は男子諸君を味方に引き込みます。確か、鶴久氏は昔、深夜のエロ番組の司会をしてたと記憶しています。ギルガメでしたっけ?当時の中高生男子諸君は、鶴久のアニキの一大事といえば「いざ鎌倉」とばかりに味方するに決まっています。
                    鶴久のアニキの戦友とも言えるイジリー岡田が、この先チェッカーズ内紛もとい内戦にどのように関わってくるのかも、見所の一つでしょう。

                    しかしながら、鶴久氏は「本を書いたのは自分ではない」発言をしているので、この先フミヤ派に懐柔されることがあれば、小早川秀明の如く、華麗なる寝返りを見せるのかも知れません。そうなった場合、タカモクは石田光成を彷彿をさせるような悲劇のヒーローとして芸能史に名を残すことになるかもしれません。

                    やはり、ミュージシャンのグループは仲が悪くてナンボでしょう。基本的にいがみ合っていても、音楽だけで繋がっている、というそのギリギリの緊張感が音楽に好作用をもたらす場合もあるわけですから。
                    僕はフミヤと同じく、タカモクの本を読んでませんから何故にこんなにいがみ合っているのか理由はわかりませんが、きっと金や女がらみのどちらかといえば汚い理由であることは推測できます。
                    その辺も外国のロックバンド辺りを彷彿させるので非常に良いですね。
                    音楽は最高なのに、くだらない問題がいつも絶えなくて評判を落とす、ラッツ&スター(鈴木雅之、マーシー、クワマン)なんかもそうですが、なかなか最近の若いバンドにはこういう破天荒さが無いので是非見習って欲しいです。

                    最近の若いミュージシャンは皆、仲良さそうでつまらないです。だから、やってる音楽もつまらない。
                    175Rとか仲良さそう、だから曲がつまらない。J-ヒップホップ勢も仲間意識が強いですが、そんな高尚なものではなく、だらだらした馴れ合いにしか見えないので、単なる内輪受けレベルの曲しかないです。

                    普段から仲良さそうな人達が、「みんな仲間。楽しい。幸せ。ずっと友達。」みたいな趣旨の曲を歌ってもちっとも面白くないです。
                    殺したいほど憎み合っている人間達が、曲を演奏する3分間だけ手を取り合う。それが音楽の力であり、そんな美しい幻想を見せてほしいのです。

                    ジョン・レノンが恥ずかしいくらいの愛の歌を歌ったのは、きっと死ぬまで愛の無い生活だったのではないかと思ったりします。ヨーコがそばにいても彼の孤独感、疎外感は多分消えることは無かったのでしょう。
                    だからこそ、彼が愛や平和に関して歌うことには強い願いが込められていたし、それが大きな力になっているのでしょう。

                    自分に手に入らないもの、自分に欠けているものをどうにか手に入れたい、補いたいと切に願うことこそが、表現行為なのだと思います。

                    椎名林檎も中村一義も個人名義を捨て、バンドという形で音楽を始めましたが、リリースされた楽曲には、以前の(特にどちらも1stアルバム)にあった、願いや祈りに近いにものは感じられません。内輪で楽しんで楽曲を作っているような印象を受けます。自らの心地よい場所を見つけたのでしょうか?けれども、彼らはもはや降りてしまったアーティストとしか見えません。今年の残念なことの一つかもしれない。

                    チェッカーズから、かな〜り脱線してしまいましたが、僕が一番好きな曲は、「BLUE MOON STONE」です。それからやはり「Song For USA」ですね。どちらも50's,60'sのアメリカンポップスの匂いがプンプンしてきます。

                    フミヤももう少しタカモクの相手をすれば面白い展開になると思うのですが。特に何も無く終わってしまいそうです。

                    タカモクの本『チェッカーズ』
                    がベストセラーとかになれば面白いんですが。

                    と、思ったらAmazonのランキング(9・17現在)368位です。しかも在庫切れ(笑)カスタマーレビュー超面白いです。みんな暇なんだなあ。

                    ナインティナインのスポーツマンシップ

                    2004.08.18 Wednesday

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                      8月14日の「ナイナイサイズ」はゲストが“くりぃむしちゅう”だった。
                      ナイナイサイズは、大抵ゲストには俳優などが来て、ゲストとのトークと、
                      週代わりの岡村、矢部がそれぞれのロケ、という構成が番組の基本構成だ。

                      ただし、ゲストがお笑い芸人など、トークそのものが面白いゲストの時などは、
                      ロケは無く、トークのみで30分番組が構成されることが時々ある。

                      今回はもちろん“くりぃむしちゅう”がゲストなので、トークのみである。

                      「面白かった・・」

                      ナイナイとくりぃむは、現在最高のカップリングの一つでないだろうかと思う。
                      ナイナイ自身、毎日のように仕事で顔を合わせているといったようなことを語っていることからわかるように、まさに、この2組は今最良の時を迎えている。
                      くりぃむの異常なまでの売れ方が、そのまま現在の勢いを物語っているとは思うが、
                      ナイナイと絡むときは更に素晴らしい(特に有田。というより、ナイナイの番組に、上田も一緒に出演することの方が少ない。)
                      14日の「ナイナイサイズ」がいかに面白かったかは、矢部のイキイキとした表情を見ればわかる。
                      ひいてしまうぐらいの、上田の恋愛トークに矢部のテンションは上がり放題(矢部は恋愛話になると、目の輝きが違う)。
                      おいしい所を持っていく主役は、有田であったが、かといって岡村が目立たなかったわけでもない。
                      まさに、最高のカップリングが織り成す、最高のバラエティマジックが14日の「ナイナイサイズ」にはあった。

                      それにしても何故にこの2組がこんなにも相性がいいのだろうか?

                      ここからは僕個人の所感だが、その答えとして、2組が醸し出す絶妙の距離感があげられるのではないだろうか?

                      突然だが、ナイナイはキャブラーとの相性が良いと思う。

                      キャブラーとは言わずと知れた、ボキャブラ天国でブレイクした芸人達だ。
                      ネプチューンや、爆笑問題、海砂利水魚(現くりいむしちゅう)なんかは一般的に名前が知れたのはこの番組であることに間違いないだろう。

                      ボキャ天では、比較的吉本以外の芸人の存在が目立っていた(ロンブーなども出てはいたが)。
                      ナイナイが醸し出す絶妙の距離感とは、吉本以外の事務所に属する芸人との絡みのときに発揮される。

                      互いに目指すものは同じでありながら、違う組織に属する者同士の友情は物語においても魅力的な要素のひとつだ。

                      例えば、スラムダンクで言えば、湘北の赤木と、陵南の魚住だったり、流川と仙道でもよい。湘北や、陵南や、海南や、山王など、戦いを通じて互いへの尊敬心が芽生えるというスポーツマンシップがとても清々しいのだ。
                      花道と流川は終生のライバルとして描かれるが、あまりその関係自体は魅力的ではない。あの2人はやはり同じチームで戦う同志であるから素晴らしいのだと思う。

                      ドカベンでも、明訓ナイン同士の友情もいいが、明訓と他校の生徒との関係も、それと同じくらい魅力的なのだ。

                      そのようなスポーツマンシップがナイナイから感じられるのである。
                      ネプチューンとナイナイが一緒になれば、大抵の場合、名倉ひとりが突っ込みにまわり、泰造とホリケンがボケて、ナイナイの2人は泰造とホリケンのボケをサポートする立場に回り、最終的には名倉が笑い者になるという構図ができあがる。
                      爆笑問題との絡みでも、基本的には突っ込みは田中だけだ(ただ、ナイナイの2人は太田を制御できず翻弄されるのみ)。
                      海砂利との絡みでも、ナイナイの2人は有田側に回り、有田を中心に笑いが作られる。

                      そう、ナイナイは他人のサポートが非常にうまいのだ。
                      岡村は雨上がりの宮迫と比べると、いつでもどこでも前に出ようとはしない(27時間テレビの「カマ騒ぎ」を観た方ならわかるだろう)。

                      岡村の魅力だけが最大限に発揮されるのが、オールナイトニッポンであるからこそ、僕はあの番組を何年も聴き続けているわけだ。

                      他人のサポートに回れてこそ、真の主役たりえる。その意味で、ナイナイは一流なのだと僕は思うのだ。

                      グニュウスケ

                      ドラマ「東京湾景」とフィクションについて

                      2004.08.06 Friday

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                        現在の月9ドラマである「東京湾景」の第1回をたまたま観て、少し腹立たしく感じることがあった。

                        仲間由紀恵演じる、主役の在日韓国人女性が、自分の母親の若い頃の、結ばれることの無かった悲恋の物語を知るというエピソードである。若い母親を、仲間由紀恵が一人二役で演じ、言ってみれば、偶然にも、母親と、現在の自分の恋愛が上手い具合にリンクしていく、という非常にフィクショナルかつロマンチックなエピソードである。

                        しかしながら、それを見て即座に思い出したのが、半年ぐらい前に公開されていた韓国映画の「ラブストーリー」だ。

                        この映画では、現代に生きる主人公の女性が、母親が昔やりとりしていた大量の手紙を見つけて、当時の母親の悲恋の物語を知っていくという所から始まり、過去の母親の物語と、現在の娘の恋愛物語が上手い具合に交差して語られ、最終的にはその二つの物語が、これ以上無いくらいにロマンチックに一つの結末へと結びつくという、その名の通り王道のラブストーリーであった。

                        「東京湾景」を観て、『韓流』と呼ばれる昨今の流行を取り入れたつもりなのかも知れないが、取り入れたというよりは、「ラブストーリー」を観てそのまま使ってしまった、という印象がぬぐえないのである。パクリは決して悪いことではないとは思う。しかし、その発想の安易さ、貧困さに腹立たしさを覚えてしまう。

                        我々の日常でよくあるような、あるあるエピソードを使うのであれば、他の作品と類似してくることもよくあるだろうし、特に気にも止めるようなことではないのだが、「東京湾景」は、「ラブストーリー」を観た人であれば100%、その映画を思い出したことであろう。

                        「東京湾景」のその後の展開を全く観ていないので、その母親のエピソードがどのようにドラマで絡んでいるのかはわからない(もしかしたら、初回にしか出てきていないのかも知れないし。)

                        ただ、この母娘のエピソードは最もフィクショナルなエピソードの一つであるはずだ。どんなに現実離れでもかまわない。しかし、フィクションの中でも最もフィクショナルな部分を安易に借りてくるという気概の無さに腹が立つ。

                        結果的に何かに似てしまうことはしょうがない。誰も観たことのない新しいものを生み出せることなんて滅多にあることではないし、それだけが大事なことではない。
                        けれでも、何にも替えることのできないオリジナルなものを作ろうという想いがあるか無いかは、視聴者にも絶対伝わるはずである。

                        そうした想いが全く伝わらないこのドラマは、結果的に質の高いドラマになったとしても、1年後には誰の記憶にも残らないはずだ。
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