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2017.01.13 Friday

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    リドリー・スコット「オデッセイ」に関して

    2016.02.18 Thursday

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      年が明けてから、スピルバーグやらゼメキスなどアメリカの巨匠監督の作品が立て続けに上映されているのだが、興行成績はどれも前評判に比べればふるわなかったようである(特に作品がだめというわけではなさそうなのだが)。
      スピルバーグは観たかったのだが、上映時間の長さへの煩わしさに加え、48グループのドキュメンタリーと、イメージフォーラムのアピチャッポン・ウィーラセタクン特集上映が最優先であったので、すっかり観る機会を逃してしまった。
      その中で、現在大ヒット中であり、一人勝ちと言っても良さそうな作品が、リドリー・スコット監督、マット・デイモン主演の「オデッセイ」である。

      この作品のどこが面白くて、何故にこんなにもヒットしているかという分析は以下のリンク先(RealSound)の小野寺系氏による評論に全て書かれているので、あえて僕が同じようなことをここで書いてもしょうがない。
      http://realsound.jp/movie/2016/02/post-983.html

      他には「火星版ダッシュ村」だとか「こち亀」に似たような話があるとかいう意見もあったが、その通りなのであろう(僕はさほどそうだとも思わなかったが)から、僕がここで同じようなことを書いてもしょうがない。

      ただ面白い映画だった、くらいではブログの記事を書きたいとは思わないのだが、それ以上に僕の感情を揺さぶる「何か」があったので、今回記事にしてみたいと思ったのだ。

      その「何か」とは何か?

      本作品の鑑賞後、僕は他の観客同様にポジティブな感動に満たされていたと同時に、漠然とした「何か」を獲得した、という確かな感触があったのだ。これは初めての感覚では無く、ものごころ付いたときから何度も感じたことのある、「獲得感」であった。

      自転車に乗れるようになり、徒歩ではいけなかった遠くの街が身近に感じられたとき、仙台から東京の大学に進学し、異世界だった東京の街が、自分の住んだ街、大学のある街、ライブハウスのある街、一つ一つ知らない土地が、自分の経験となり血肉となっていく「獲得感」を感じていた。
      最近になっても、自分の車を手に入れると、さらに遠くの土地は自分のものとなり、気兼ねすることなく旅立てるようになった。あんなにも遠くに感じていたフジロックだってもはや慣れたものだ。金銭的にも余裕ができると、新宿に買い物でも行くくらいの感覚で名古屋だって大阪だって福岡にだって行けるようになった。
      知らない土地で行きつけの店ができたり(そんな大層なもので無くても良い、とりあえず一休みしたいときに入るドトールやスタバだったり、一服したいときの喫煙所だったり、綺麗ですいているトイレの場所だったり、アプリを利用せずともスムーズに電車の乗り換えができたり・・・)
      といった一つ一つ獲得していくような感覚と同じものを、「オデッセイ」の鑑賞後に確かに感じることができたのである。

      僕にとっての宇宙観とは、手塚治虫による「火の鳥 宇宙編」で描かれていた宇宙のことであり、それは想像もつかぬ程遠く、絶望感に満ちあふれた世界であり永遠に縁の無い幻想の世界であった。
      つい最近であっても、クリストファー・ノーランによる「インターステラー」などは時空というのか次元と言えば良いのか、常人では理解することのできない距離感を宇宙に対して抱かせる作品であったし、「オデッセイ」の監督であるリドリー・スコットだって前作の「プロメテウス」で描いた宇宙は何というかトンデモなものであったので、到底現実の世界とリンクするようなものを普通の人間が感じることなど無理であった。

      「オデッセイ」を観て、僕は宇宙の、火星の生活というものの一端を獲得したような気がした。一見映画の内容と全然関係無いような気もするが、そのように思わせてしまうところが本作品の肝なのではないだろうか。今時の映画にしては、火星の描写が、火星というよりは中東辺りのロケ地そのままのように見えてしまっているということも理由としては考えられるのだが、それが不可抗力であるのか狙っているのかは判別ができない。

      最後の救出ミッションも、マット・デイモンをピックアップする車が全て出払ってしまっているため、車を新たに用意するのは時間がかかり過ぎるから、先に出ていて今まさに家(地球)に帰ろうとしている人たちに、お弁当預けるから、も一回火星に行って、マット・デイモン拾ってきてよ、というノリだった。もちろんそれの一つ一つを実現するには非常に困難なことであることは頭で理解はできる。しかし、もはやそんなことは大した問題では無いのかもしれないと思わせたことがこの映画が新鮮な驚きをもって迎え入れられた点なのだと思う。

      このお茶の間SF感は日本人である我々にはなじみ深い。何十年も前から藤子・F・不二雄によって描かれていた世界観でもあるからだ。クリストファー・ノーランによるクソマジメなSFも悪くないが、「たかが火星じゃねえかこんなもん」というSF観も悪くない。むしろ日本人である我々によりしっくり来たが故にここまでの大ヒットとなっているのだろう。

      しかしながら、ここまでNASAが魅力的なアツい職場だと描かれ、火星がさも自分たちの生活圏内の一つになり得るかのように描写されたことに何か政治的な意図があるのではないかと勘ぐらざるを得ない。
      アメリカの国家レベルでの宇宙開発は停滞しているかと思っていたのだが、もう一度莫大な予算と投じて宇宙開発を一気に押し進めようとでも考えているのだろうか?(ヴァージンなどのように民間の会社が独自の宇宙開発を行っているのが潮流となってきているが、ホリエモンは宇宙詐欺にあったばかりだ)

      現実的に考えれば、僕は自分が生きている間に、自分自身が火星に行けることになるなど考えていない。それでも、映画を観終わってまだ1週間と経てしない現在、僕は火星を獲得したような高揚感に包まれているのだ。

      映画の後半、故デヴィッド・ボウイの「Starman」が流れるシーンは本当にエモーショナルで最高のシーンだった。「Life on Mars」では無く、「Space Oddity」でも無く、「Starman」なんだなあとしみじみとしてしまったよ、ホント。
      (結構、これは重要なことのように思う)


      JUGEMテーマ:映画

      Documentary of HKT48』と『Documentary of NMB48』に関して

      2016.02.15 Monday

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        1/29より公開となった、表題の2本の映画について、両作品とも2回ずつ鑑賞してきたので感想を一通り記録しておきたい。

        一応ことわりを入れておくと、いわゆるネタバレとかを気にせず内容について触れているのでご注意を。

        『Documentary of HKT48』について



        指原莉乃、初監督作にて天才の片鱗を見せつけた作品だった。
        パンフにも記載され、監督本人も言及していたが、ドキュメンタリー映画を作るにあたりマイケル・ムーアの作品を観たとのことであり、確かに今回の作品もマイケル・ムーア風のスタイルであったことは一目瞭然であった。
        ここで言うムーア風とは、監督本人がカメラの前に登場し、自ら気になる人物に話を聞きにいき、インタビュー風景そのものを観客に提示するというものである。当然ここでは、話をしている人物だけでなく、話を聞いている指原監督自身の表情に強い意味が付加されてくる。
        また、映画の構造の特徴として(特に前半)、指原監督がドキュメンタリーを製作する上で留意していたことを語り始めたりと、メタドキュメンタリーであると言っても差し支えない内容であった。
        例えば、コアなファンであるならば知っている、HKTの黒歴史とも呼べる5人のメンバーの一斉離脱の件について、深くは触れない理由を語ったり、秋元康事務所でのシングル選抜メンバーを検討する会議の様子を初めて見た監督が感想を述べたりするといった具合だ。
        映画のナレーションは指原監督自身がつとめており、その語り口は説明をするというより、ぼそっと感想を呟いたりとDVDコメンタリーに近しいスタイルとなっており、観客はまるで指原監督とともにHKT48の軌跡を振り返っているような錯覚を覚える。

        冒頭で「天才の片鱗」と書いたが、何故そう思ったかというと、節々に松本人志との類似性が感じられたことに由来する。
        彼らの才能は多くの人が認めるものであり、誰に何を言われようともぶれることの無いタフさを持っているはずである。しかし、彼らは自分自身が何を言われようと気にしないであろうが、こと自分の作品については言い訳がましい所があり、それを作品中に忍ばせるということを平気でやってしまう。自分は傷ついても汚れてもかまわないが、自分の作品は誰にも傷つけも汚されもしたくない。多くの人は「自分イコール自分の作品」なのではないかと思いがちであるが、彼らにとってはそうではないのであろう。自分自身など作品を構成する素材の一つに過ぎないという冷徹な視点を持ちながら、自分の作品はまるで自分の子供のように愛情を込め、全力で守るという情緒があり、それが良いとか悪いとかいうことではない、その振れ幅において類似性が感じられるということがかなり興味深く感じられた。
        (僕はこれを書きながら、松本人志の最新作であり、もしかしたら最後の映画作品になるかも知れない「R100」を思い浮かべている)
        先に述べた指原監督によるナレーションは、松本人志の「ひとりごっつ」や「ヴィジュアルバム」のDVDコメンタリーを想起させるものがある。このドキュメンタリーがDVD化される折には、さらにDVDコメンタリーを付加してくることを切望する。コメンタリーが加わることによって、この映画は更に別の側面を見せることになるであろうことは容易に想像がつくからだ。

        映画の観客としてどういう層にターゲットを定めるかということも明確に監督本人が劇中に語るシーンがある。指原監督が以前より提唱している、「一般層」「ライト層」「コア層」というファン層(一般層についてはファンとは呼べない層であるが)のうち、「ライト層」と「コア層」をどのように満足させるかということにこだわりを見せているようであった(僕の感想としては、映画の目的として、「ライト層」をいかに「コア層」へ引き上げるかということを意識して作られているように感じられた)そして、それは「一般層」がこの映画を観ることはまず無いだろうという判断を、半ば無意識的に下したことに他ならない。僕の勝手な憶測に過ぎないのだが、彼女は秋元康をはじめとした「大人」達へこういうプレゼンを多分実行している。その想像をさせてしまうところが彼女の非凡な才であることは間違い無い。

        監督のインタビュー能力の高さにも感心するほかは無い。曖昧で観念的な言葉で語りがちな若いメンバーに対して、「例えば?」「付帯的には?」「何でそう思うの?」や、涙するメンバーに対して「それは何の涙?」「何泣き?」といった具合に、常に論理が通るように彼女は掘り下げる。この卓越したインタビュー能力こそが、指原莉乃たらしめているのだと映画を通じて強く感じることができた。

        映画を通じて最も印象的なのは、監督の表情である。特に「目」だ。感情を全く読み取ることのできない警戒心の強い「目」だ。
        ちょうど発売中の雑誌「SWITCH」の表紙(藤原新也)でもその「目」は見ることができるのだが、やはり彼女の表情の凄みは、ぜひとも劇場のスクリーンで堪能したいものだ。

        48グループのドキュメンタリーシリーズと言えば、エンドロールで流れる主題歌である。普段のシングルとは少しモードを変えて、シリアスでメッセージ性の強い、いわゆる「エモい」曲になっているので、ファンの間でも人気は高く、コンサートでも大事な場面で歌われたりと常にシングルの次に注目度の高い楽曲となっている。指原監督はこのことを逆手にとった。本作品の主人公の一人、上野遥という一度も選抜経験は無く、しかし劇場公演を誰よりも愛し、人知れず努力を続けてきた彼女が初めて歌唱選抜、しかもセンターとして本作品のテーマ曲を歌う場面でドキュメンタリーが終わるのである。
        映画が製作されるからこそ、上野にスポットが当たり、テーマ曲のセンターに選ばれるというメタ構造を貫き本作は終わるのである。
        エンドロールは、画面の半分がエンドクレジットで、もう半分はマイクを前にヘッドフォンを付け、テーマ曲をレコーディングするメンバーの姿が映される。これは、岩井俊二が監督したAKBドキュメンタリー1作目のエンドロールと同じだ。48ドキュメンタリーシリーズのファンであれば誰しもが「アガる」やつである。指原監督は熟知した上で、「みんなこれ大好きでしょ?」とドヤ顔で編集している様が目に浮かぶようである。
        ただし、楽曲としては少々凡庸で肩すかしをくらったなということを一言付け加えておきたい。

        後半の最もエモーショナルな場面で、HKT48の超名曲「大人列車」のピアノインストバージョンが流れるところも、監督わかってるな、とひたすら彼女の手のひらでまんまと踊らされてしまったなという感想で締めくくりたい。


        『Documentary of NMB48』について



        HKTとは対照的にNMB48のドキュメンタリーは、船橋淳というハード・ドキュメンタリーの監督が選ばれた(「ハード・ドキュメンタリー」って何?オダギリジョー主演の「BIG RIVER」撮った人でしょ?と思ったがパンフ通りの紹介に留める)
        船橋監督は全く外部の人間であり、NMBのことは全く知らない。結果として、NHKのドキュメンタリーのような社会派といっても良いような硬質な作品になっていた。萩原聖人によるナレーションの印象が強いことも一因であろう。先の指原莉乃提唱の「一般層」に向けた作品である。しかし、悲しいかな「一般層」でこの映画を観る人は少ないだろう。そこで、本作品は香港国際映画祭へ出品されることが発表された。(香港国際映画祭がどのくらいの格の映画祭なのかはよくわからないが)秋元康の頭の中では、明確に海外向けの作品にしたいというビジョンがあったのだと想像できる。

        本作品はファン(一部メンバーも)からかなり不評をかっているようだが、僕自身の感想としては非常に好感の持てる良い作品だったという印象しかない。不評である理由も理解できるが、それを一つ一つあげつらって反論していく野暮なことはしたくないので、どういう点が良かったかという僕の感想を書き留めておきたい。

        この作品は船橋監督がドキュメンタリー制作を通じて、NMB48の魅力を知っていく過程を描いた作品だったと言っても良い(ドキュメンタリーとはそういうものなのかも知れないが)。その過程は、僕自身も同じようにその過程を歩んだという自負があるので共感を呼び起こすものだった。
        冒頭、2015年2月の日本武道館のライブシーン(楽曲は「カモネギックス」)から作品は始まる。本作品で特徴的なのは、楽曲を中途半端なところで切らずにしっかりと聞かせる(見せる)ように編集しているところだ。必ず左上に楽曲名が表示され、フルサイズとは言わなくてもいわゆるどういう曲なのかというのが、全く知らない人にも把握できる程のサイズで見せるよう編集されているのだ。
        常々、音楽ドキュメンタリー(海外のも含めて)を観て不満に思うのが、楽曲を中途半端にしか見せてくれないところだ。観るのはファンが大半だからという判断もあるかも知れないが、そのミュージシャンがどういう楽曲を演奏しているのかというのをそのまま見せることが、何より伝わるのでは無いかと考えてしまうので僕としては不満に感じる作品が多かった(予断だが、大根仁監督による電気グルーヴのドキュメンタリーも楽曲をたっぷり聞かせてくれていたので、僕としては大満足の作品であった)。先のHKTドキュメンタリーでは楽曲をちゃんと聞かせるようなシーンは皆無であったことにも触れておきたい。もちろん、音楽ドキュメンタリーではなく、アイドルドキュメンタリーであるのでそれはそれで理解はできるのではあるが。

        劇中で印象に残る楽曲、これは船橋監督本人に響いた曲だったと思うのだが、「カモネギックス」「初めての星」「結晶」「ドリアン少年」「青春のラップタイム」などであり、これはもう「わかるわかる」という感じである。特に「初めての星」「結晶」「青春のラップタイム」などは、NMBを知り始めたらもう絶対ひっかかるよね、船橋ちゃん、と肩を組みたいくらい共感できる。
        須藤凛々花を取り上げる場面で、「ドリアン少年」のMV撮影シーンに多くの時間が割かれている。このMVは三木孝浩が監督している。もしかしたら、三木監督と船橋監督はお仲間なのかなくらいに勘ぐってしまったが、三木監督が演出しているところを船橋監督率いるドキュメンタリーチームのカメラが映しているというのは、なかなかに面白かった。そして、「ドリアン少年」のMVがかなりの時間、映画館のスクリーンに映し出されるのである。このMVは結構な名作なので、これだけでも映画館で観る価値はかなりあると感じる。

        映画のストーリーの核として選ばれたメンバーは4名だ。グループの代表として山本彩、山本と同期でありながら一度も選抜経験が無く、劇場職人としての道を進んで行く沖田彩華と彼女を支えるファン。母子家庭に育ち、年の離れた弟の面倒を母親代わりとして見続け、いつかは一家の大黒柱になりたいと願う矢倉楓子、哲学に傾倒しアイドル道を選んだ須藤凛々花。
        映画のほとんどがこの4名のことばかりだったということに不満を持つ人も多いようだが、船橋監督としては、自分がドキュメンタリーを撮る以上、コアなファンしか楽しめないようなものでは無く、NMBもといアイドルグループに興味の無い人にも接点を感じられるようなメンバー、社会性を感じ取れるような題材を取り上げたいと考え、この結論に達したのだということは理解できる。
        映画の予告編にも使われているが、須藤凛々花が、ニーチェやジョン=スチュアート=ミルといった哲人達の言葉を引用した散文詩(クレジットでは監督と共作となっていた)を朗読しながら、道頓堀川を舟で下るというシーン(モノクロ)が随所に挿入される。このシーンはちょっとひねくれた映画監督にありがちな「かっこつけ」くらいに思っていたのだが、今になって考えると結局この部分に船橋監督が本作品を通じて伝えたかったものが凝縮されていたのだなと感じてしまう。
        僕が唯一理解できなかったのが、報われないメンバーに対する献身的なファンの姿であった。メンバー達の苦労などは、一定の理解はできる。どんな世界にだって、頑張っても周りから認められない、努力が報われない、などといったことはあるし、誰しもがどこかで承認欲求のようなものがある。欲望の源泉となるものは誰しもが同じであり、アイドルであろうがサラリーマンであろうが、どこか共感できるところはある。しかし、ピュアと呼ぶにふさわしいファン達は何故そこまでして一人のメンバーを応援したいのか、生活の全てをそのメンバーに捧げたいのか、彼ら自身の言葉でも語られているのに、結局のところ根源は理解できなかった。そして、船橋監督自身も理解することができなかったのだと思う。わからないものをわからないと描いたが故に、それは畏怖の念にも変わっていく。ピュアな者に対する怖さだ。どうしても宗教的な何かを感じ取らずにはいられず、神の存在を本気で信じない者にとって、ピュアな者ほど怖いものは無い。それは船橋監督本人の率直な視点だったのだと思う。そして、僕自身もその視点は船橋監督と同じであると感じている。
        須藤凛々花が語る散文詩は「何故、アイドルになるのか。」「何故、アイドルを応援するのか。」「何の目的で?」「何を得られるのか?」という問いかけである。問いかけるということは「わからない」ことの表明でもある。とどのつまり、「わからない」ことを「わからなかった」と表明することがこの映画の最大の主旨であったのだと思う(これはまさに海外向けな描き方だなと感じる)

        HKTドキュメンタリーでも同様に不遇のメンバーを献身的に応援するファンを追いかけていたが、こちらはNMBとは対照的にひたすら温かく、感動的ですらある描き方をされていた。それは指原監督本人が、神であり教祖でありという立場ゆえのものだろう。神の視点からすれば、ピュアな信者に対するまなざしは温かい。NMBドキュメンタリーと真逆で、「わかっている」監督が「わかる人にわかって欲しい」というスタンスが無意識的に表出してしまっているのだろう(こういう点も松本人志ぽい)

        同日公開で比較されることを前提に作られているのかと勘ぐってしまうと、このような形で長文記事を挙げてしまうのは、秋元康の術中にまんまとはまったようで少々気恥ずかしいのだが、それだけ楽しませてもらったということだけは強調しておきたい。

        ※追記
        NMBドキュメンタリー主題歌「道頓堀よ、泣かせてくれ」は、やしきたかじんテイスト満載で名曲だった。

        ※追記2
        タイトルから、男闘呼組「ロックよ、静かに流れよ」を連想してしまった。
        いつか山本彩には男闘呼組の楽曲をカバーして欲しい。何故なら声質がぴったり合うからだ。

        「渋谷シネマライズ閉館」に関して

        2015.10.14 Wednesday

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          渋谷を象徴するミニシアター、シネマライズの閉館が発表された。

          http://natalie.mu/eiga/news/162494

          2011年のシネセゾン渋谷、2014年の吉祥寺バウスシアターに続き、僕の中で静かに何かが崩れ落ちるようなショックを少なからず受けてながら、キーボードを叩いている。

          「シネセゾン渋谷閉館に関して」
          http://gnyuske.jugem.jp/?eid=137


          僕はバウスシアター閉館について何も記事をアップしていなかった。
          (正確に言えばしているのだが、今読見返すとちょっとおふざけが過ぎたので、リンクは貼らない)

          シネマライズが閉館するという背景について、素人の僕があれこれと想像をめぐらせて書いていても仕方が無いので、ひたすら個人史と照らし合わせて書こうと思い、シネマライズの過去公開作品のページを年代毎に開いてみた。

          http://www.cinemarise.com/theater/archives/

          1997年、僕は大学進学を機に仙台から上京し、吉祥寺へ住み着いた(現在もだ)

          じゃあ、1997年にシネマライズで何か映画を観たかというと実は観ていなかった。

          http://www.cinemarise.com/theater/archives/1997/

          もちろん、このリストにある映画の大半は観ている。
          「トレインスポッティング」「ファーゴ」「奇跡の海」「シド・アンド・ナンシー」「ブエノスアイレス」
          どれも、シネマライズの映画という印象が強いし、何なら全てシネマライズで観ていたような錯覚すら覚えている。しかし、実際には別の場所、別の時間に観た映画ばかりであったのだ。

          僕の住んでいた吉祥寺にはバウスシアターという2014年に閉館した映画館があった。2000年代、映画を狂ったように観ていた僕は主にバウスシアターを主戦場に善し悪しも判断せずに映画を観ていた。
          ある時期より、全てでは無いがかなり高い確率で、シネマライズで公開終了となった作品がバウスシアターでレイトショーなどで公開されるようになった。慣れてくると、「この作品は待っていればバウスでかかるだろうから、そのとき観るか」といった判断はかなり容易となった。
          しかし、僕は実際にはバウスで観た映画もシネマライズで観たという錯覚を長い間感じていたのだ。

          他の映画館で観ようと、DVDで観ようと、「シネマライズで観たような気がする」といった錯覚を感じさせること、それこそがシネマライズの特殊性を最も端的に表現できると思う。

          僕はシネマライズの映画ばかりを観たのだ。

          過去公開作品のリストを更に紐解くと印象的な年がいくつかあった。

          1999年〜2000年
          http://www.cinemarise.com/theater/archives/2000/


          実は初めてシネマライズに行ったのはこの年である。レオス・カラックス監督作「ポーラX」を観たのだ。20歳の僕は初めて「映画」と出会った。劇場は超満員だった。シネマライズの一番端の席で、高い位置のスクリーンを見上げていた。上映終了後、救いの無い終わり方のせいで静まり返った館内の雰囲気を今でも覚えている。

          2001年〜2002年
          http://www.cinemarise.com/theater/archives/2002/

          リンクを貼った2002年公開作品は、マシュー・バーニーの作品以外は全てシネマライズで観たことを鮮明に覚えている。
          「リリイ・シュシュのすべて」を観終えたときのあの感情。
          「DOGTOWN&Z-BOYZ」を観終えたときのあの高揚感。
          あの頃のフランソワ・オゾンの無敵感。
          「青い春」のエンドクレジットに使われた、ミッシェル・ガン・エレファントの「ドロップ」。

          ここから2006年あたりまでが一番良くシネマライズへ足を運んだ。

          http://www.cinemarise.com/theater/archives/2003/

          http://www.cinemarise.com/theater/archives/2004/

          http://www.cinemarise.com/theater/archives/2005/


          ソフィア・コッポラ「ロスト・イン・トランスレーション」は世界中の映画ファンが、世界各地で観ただろう。しかし、映画が終わり、映画館の外に出るとそのまま映画の舞台となった渋谷の街に飛び込むことができるという体験を与えたのは、世界中探してもシネマライズ以外に無かった。

          そして僕にとって最も大事な映画の一つである、ガス・ヴァン・サント監督「ジェリー」はシネマライズで観たのだった。その後、バウスシアターでも爆音上映などで何度も観た。

          ガス・ヴァン・サント監督〜「GELLY(ジェリー)」に関して
          http://gnyuske.jugem.jp/?eid=31

          「ジェリー」がまた観たい。
          ガス・ヴァン・サントの映画がまた観たい。
          しかし、シネセゾン渋谷を失い、シネマライズを失い、もはやガス・ヴァン・サントの作品を最高の環境で観れる場所は世界中のどこにも無い。
          シネマライズを失うことは、ガス・ヴァン・サントという偉大な映画作家を失うことに等しい。
          今後も作られるであろう彼の新作は、ネットフリックスでもHuluでもAmazonプライムでも観れるようになるだろう。しかし、そこにもはやフィジカルな映画体験は無く、彼の作品はネット回線を漂う塵となって埋もれていくことを意味するのだ。

           

           

          ジャン・リュック・ゴダール最新作『さらば、愛の言葉よ』に関して

          2015.03.02 Monday

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            ジャン・リュック・ゴダール最新作「さらば、愛の言葉よ」の2回目の鑑賞を終えたタイミングで感想を記しておきたいと思い筆(キーボードだが)をとることにした。

            映画の感想(評論とは言えない)は難しい。ただ粗筋を書くだけなら意味が無いし、かといってこのショットがうんたらかんたらとか言っても、映画製作の仕事をしているわけでも無い者にとってはどうでも良いことのように思える。
            結局の所、「超面白い」「寝た」「何も無い」「神」「二階堂ふみが若き日の宮崎あおいみたいで可愛い」とかそのくらいのバリエーションしか映画の感想を語る言葉は無いと思うのだ。

            そのくらい困難である映画の感想であるのに加えて、ゴダールの感想である。素人の私が何を語れるというのか。

            しかし、ゴダール初の3D作品となった本作は前述した感想のバリエーションとは全く異なる次元で感覚を揺さぶる体験であったのだ。

            散々語られていることだが、本作での3Dは通常の商業作品の3Dではタブーとされていることをやってしまっているらしく、画面に何が映っているのかすら判別できない映像が満載である。コンタクトレンズの違和感、頭痛、そしてゴダール作品鑑賞時にはお馴染みの強烈な睡魔がジェットコースターのように襲ってくる。1回の鑑賞では全く何も理解することができず、2回目の鑑賞時も理解度という点では何も進歩することは無かったのだが、自分にとって本作がどのような意味合いの持つ忘れがたい作品となったのかがようやく整理できつつある感触を得ることができた。

            前作「ソシアリズム」までは、よくわからないし睡魔に襲われるという点では同じであるが、必ず目の覚めるような美しく印象的なシーンが散りばめられており、それはゴダール作品でしか味わえないような快楽でもあった。しかし、本作においてはそういった快楽的なシーンはほとんど無かったと感じる。全く無かったとは言えないのだが、具体的にどのシーンであったと思い出せるようなものでは無く、映画が終わった瞬間に全て記憶から消えてしまうような感覚すら覚える(安易に記憶に刻まれない、「忘却」という点はゴダール映画の大きな特徴だとは思うのだが)

            私が若かりし日、ゴダール映画に傾倒した時期というのはどこか格好付けたい気持ちが無かったわけでも無い。文学、哲学、美術、歴史からの膨大な引用は、教養の無い私にとって全く理解などできる類のものでは無いのだが、そのわからなさ、90分の苦痛をマゾヒスティックに楽しんでいた感がある。しかし、年齢を重ねた私もとうの昔にそのような「青の時代」が終わっている。それでもなお本作のようなゴダール映画に魂を揺さぶられるのは何故なのだろうか。

            理由を簡潔に述べるならばただ一つ、「さらば、愛の言葉よ」は今までのゴダール映画とは全く違う次元の体験があったからに他ならない。

            私は今まで通り強烈な睡魔と戦いながらも、少しでもゴダールを理解したい、ワンショットも見逃したくないという欲望をもって本作に挑んだ。しかし、強烈な3D映像は私のそのような欲望、脳の制御を無視し、眼球が勝手に映像を「拒絶」しているという感覚を覚えた。それから、すぐに現れる「忘却される短くも美しい映像」を私の眼球は「受容」する。
            私の眼球は脳とは切り離され、ただただ「拒絶」と「受容」を目まぐるしく繰り返す。果たして、それは全く新しい体験であったのだ。

            映画館で映画を観るという行為は、不特定多数の他人を同じ映像を一定時間を共有するということに意味がある。
            同じ映像を観て、それぞれが少しづつ違う感触を感じる所に妙があると思うのだ。
            しかし、この本作の恐るべきところは、観客各々がもはや同じ場所に居ながら、同じ映像を観ていないという可能性すら秘めていることにあるのだと思う。3Dでしか観る方法がないという特性上、DVDが出るのかどうかすら怪しいので、映画館で決められた時間に不特定多数の他人を一緒に観る以外に選択肢は無い。
            だが、私は隣の席の人物と同じ映像を観ることができないのである。



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            2014年第1四半期 映画ベスト3について

            2014.03.27 Thursday

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              素人ブログにお馴染みの、「今年の○○ベスト●」である。
              年末にこういう記事を書くと、年初の良作の印象が薄くなってしまうので、こまめにこういう記事をあげておくと良いのでは無いかと思う。

              2014年の第一四半期は、世間的にはソチ五輪、佐村河内、STAP細胞の「時事ネタ三銃士」の印象が強いし、ウクライナ情勢は複雑さを増し、素人としては思考停止する以外に無い。そして、もはや東京都知事が誰になったかを誰も覚えてはいない。

              しかし本当に大事なのは映画だ。
              この世は映画で出来ている。
              我々にできることは映画を観ること以外に無い。
              ということで、2014年第1四半期に私が観た映画ベスト3を発表したい。
              (いつまでも、トップの記事がAKB関連というのもあるが・・・)

              第一位「5つ数えれば君の夢」

              日本映画界期待の新鋭、山戸結希監督が、avexの5人組アイドルグループ、「東京女子流」を主演に撮影した作品である。
              渋谷シネマライズのみの公開だが、久しぶりにシネマライズ感のあるエモーショナルかつ情緒的な作品を観れたと大満足。
              パンフを読むと、岩井俊二「リリィ・シュシュのすべて」にかなり影響を受けているらしく、現実感の無い詩的な台詞と音楽が満載であった。十数年前に同館にて「リリィ・シュシュのすべて」を観た時の若かった自分に戻れたような気がして、冷静な判断ができなかった。
              思えば、20代から30代までの自分は、この「リリィ・シュシュ」的なもの、「エヴァンゲリオン」的なものの呪縛から解き放たれるための人生であったのかも知れないと感じる。しかし、この映画を観た時に所詮自分はこういった、清潔感のある詩的でエモーショナルな表現から逃れることなどできないのかも知れないと謙虚な気持ちになってしまった。
              批判的な意見が多そうな映画ではあったが、こういうものはやったもの勝ちである。兄に家族以上の愛情を持つ、文化祭実行委員長のエモーションが極まった長台詞が堪らない。



              第二位「ほとりの朔子」


              「5つ数えれば君の夢」を観るまでは、これが今年のベストだと思っていたが、結果2位である。深田晃司監督、二階堂ふみ主演の大傑作。簡単に言えば日本版エリック・ロメールである。ここまでロメールな映画もなかなか観れるものでは無い。そして二階堂ふみは可愛い。若き日の宮崎あおいのようである。ただし、この監督の他の作品を僕は好きになれるかわからない。それが、2位という順位を導いたのでは無いかと思うのだ。


              第三位「アンビリーバブル・トゥルース」

              NY映画の至宝、ハル・ハートリー監督の1989年のデビュー作。
              2014年5月いっぱいで閉館する、我が心の映画館ナンバー1である吉祥寺バウスシアターは、2月にハル・ハートリー特集上映を行ったことへの敬意を表しての第3位である。
              昨年末に同じくバウスシアターで上映された、NY映画を代表するジム・ジャームッシュ監督の最新先「オンリー・ラバーズなんちゃら」という映画がまあひどい映画だったのに対して、ハル・ハートリーの素晴らしさといったら。
              彼の2011年の新作である、「はなしかわって」も素晴らしい作品であったことは書き記しておきたい。
              いやあ、それにしてもジャームッシュの新作はひどかった。

              このような良質な特集上映をやってくれる映画館が無くなることが寂しくてたまらない。僕は自宅でDVDなどで映画を観るのはあまり好きでは無いので、圧倒的に近所のバウスシアターで観る本数が多かった。映画=バウスシアターであったのだ。それはこれからも変わらないだろう。
              フォーエバー・バウスシアター!
              ありがとう・バウスシアター!



              ちなみに他に良かったのは、ロン・ハワード「ラッシュ プライドと友情」、リチャード・リンクレイター「ビフォア・ミッドナイト」などがある。


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              2012年私的映画ベスト3〜『Playback』に関して

              2013.02.03 Sunday

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                 既に2月6日になってしまった。
                突然だが、2013年1月5日時点でのベスト3を以下に挙げる。

                第1位
                『ニーチェの馬』(監督:タル・ベーラ)
                ハンガリーの巨匠、タル・ベーラ監督による、本人曰く最後の作品。
                圧巻の長回しと、静謐さで世界の終わりの風景を描いた、無駄を全てそぎ落とした大傑作。スクリーンに映っている場所はどこなのか、人物達は誰なのか、映画を観終わった所で理解できることなど一つも無かった。退屈な作品とは切って落とすことはできない。他のどんな表現でもあり得ない、映画にしかできない異常な体験。ただただ、強く心に残った。

                第2位
                『次の朝は他人』(監督:ホン・サンス)
                韓国の天才、ホン・サンス。ようやく彼の作品を年末の特集上映で観ることが出来た。噂に違わぬ天才っぷり。スクリーンで展開されていることは一体何が本当のことなのか、そもそもフィクションで本当のこととそうでないことの違いなどあるのか。非常に僕好みのモヤモヤとした作品。

                第3位
                『カルロス』(監督:オリヴィエ・アサイヤス)
                仏の天才、オリヴィエ・アサイヤス。6時間近い大作。3部に分けられ、3週間通って鑑賞。まともな映画監督が、潤沢な資金を得て、まともな作品を作った。しかも、控えめに作家性を維持している。退屈な場面など一つも非常にスリリングで面白かった。ヨーロッパ、アフリカ、中東と日本人にとって非常に馴染みにくい題材ではあるが世界史好きとしては大満足。


                と、ここまでが2013年1月5日までのランキング。翌日、1月6日にオーディトリウム渋谷に行って、ある作品を観てランキングに変動があった。というわけで、ランキングは以下のようになる。

                第一位
                『Playback』(監督:三宅唱)
                以下、ランキングは一段ずつ下がる。

                驚愕。
                鑑賞中、まるでゴダール、トリュフォー、小津、成瀬、ドライヤー・・何でもいい、とにかくそういった映画の巨匠達の作品を観ているのかと思ってしまった。
                よくよく考えると、一体どういうことだったんだと、一回観ただけではわからない部分もたくさんあったのだが、そういったことが映画の評価とは全く関係無い所も先に挙げた巨匠達と全く同じである。

                表現が難しいのだが、この映画にはファーストショットからラストショットまで、悲しみの「予感」が漂っていた。悲しみが直接的には描かれていない。ただ、「予感」が漂っている。映画の神に選ばれた者の作品だけが、この「予感」を獲得することができる。

                三宅唱監督は、まだ28歳である。願わくば、毎年1本コンスタントに作品を撮り続ける環境があればと思う。こういう作品を撮る作家にとって、日本映画界の現状は決して甘くは無いと思うが、ただそのことを願うばかりである。
                10年以内にカンヌのパルムドールを獲得することは間違い無い。

                他の日本映画とは品格と志の高さが違いすぎる美しい映画。2013年も様々な地方での上映があるみたいだし、東京に戻って来たらまた観に行きたい。

                シネセゾン渋谷閉館に関して

                2011.02.21 Monday

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                   シネセゾン渋谷が閉館する。

                  スクリーンが大きくて、好きな映画館の一つだった。


                  2002年頃から観た映画は大体記録にとっているので、

                  リストからシネセゾン渋谷で観たものだけを抽出してみたら、以下のような感じであった。

                  但し、2002年〜2004年までは記録がやや雑で、漏れているものが結構あると思う。

                  この時期に最も渋谷のミニシアター界隈によく通っていたのだ。


                  左から順に、鑑賞日付、作品名()、監督名となっている(一部省略)


                  2002

                  6/27  es[エス] オリヴァー・シュピーゲル

                  11/21 tokyo.sora()  石川寛

                  12/11 CQ()  ローマン・コッポラ

                  12/28 白と黒の恋人達() フィリップ・ガレル


                  2003

                  不明 右側に気をつけろ ジャン・リュック・ゴダール

                  不明 うまくいってる? ジャン・リュック・ゴダール

                  不明 ヒア&ゼア こことよそ ジャン・リュック・ゴダール

                  不明 NOVO[ノボ]()  ジャン=ピエール・リモザン

                  不明 ウェルカム・ヘブン アグスティン・ディアス・ヤネス

                  不明 ベアーズ・キス セルゲイ・ ボドロフ


                  2004

                  不明  エレファント() ガス・ヴァン・サント

                  12/27 恋に落ちる確率(デンマーク)  クリストファー・ボー


                  2005

                  5/29 コーヒー&シガレッツ()  ジム・ジャームッシュ

                  8/26 リンダリンダリンダ()  山下敦弘


                  2006

                  2/6   エリエリ・レマ・サバクタニ()  青山真治

                  10/10 パビリオン山椒魚()  富永昌敬


                  2007

                  1/8 スキャナー・ダークリー()  リチャード・リンクレイター


                  2008

                  1/13 ウィルコ・フィルム()  サム・ジョーンズ

                  2/25 人のセックスを笑うな()  井口奈己

                  4/16 パラノイド・パーク(米・仏)  ガス・ヴァン・サント


                  2009

                  無し


                  2010

                  2/11 ボーイズ・オン・ザ・ラン()  三浦大輔


                  2011

                  2月 エレファント() ガス・ヴァン・サント


                  もっと頻繁に行っていたと思ったら、思ったより行っていないことに気づく。

                  2004年以降は年に12回ってほとんど行っていないに等しい回数だ。

                  しかし、上映する作品の力なのか、映画館そのものが持つ力なのかわからないが、

                  渋谷の映画館の中では一番好きだった。


                  自分の履歴を観る限り、ヨーロッパ映画が減少し、邦画の上映される割合が多くなった。

                  邦画の中でも良い部類に入るものが上映されているとは思うが、かつてのミニシアター系の作品に客が入らなくなったのだなと改めて感じる。


                  2005年の「コーヒー&シガレッツ」を観に行った際、

                  2列くらい前に松田龍平が綺麗な女性と一緒に居た。

                  真っ黒な皮ジャンを着た彼は、ロビーで一人煙草を吸っていた

                  (当時はまだロビーで喫煙ができた)

                  「まあ、松田龍平ならジャームッシュは観に来るよな」と僕は思った。

                  慣用句の様な表現になるが、共に来ていたモデル風の美女は、

                  ジャームッシュの新作を楽しんでいたのだろうかとも僕は思った。


                  「恋に落ちる確率」とはどんな映画だったろう、全く思い出せない。

                  あえて検索もしないでおくので、僕は一生この映画のことを思い出すことができないだろう。

                  それ以外の映画は概ね思い出すことができるし、良い映画が多かったと思う。


                  2002年に観た『tokyo.sora』が最も印象に残っている。

                  あまりにも好きで、DVDも後から買った。

                  映画全編を貫くクリスタルガラスのような青い画面は、

                  そのまま僕にとってのシネセゾン渋谷の印象となった。


                  ほとんど、いや全く、音楽の無い静かな映画だ。

                  劇中の環境音と、劇場のある道玄坂の雑踏音が混じり合っているようだった。


                  ただ、映画を観る、楽しむ、意味を考える、メッセージを受け取る。

                  そんな当たり前のことでは無く、日常生活と地続きに映画を体験するということを初めて感じたのが、この映画『tokyo.sora』であり、シネセゾン渋谷という映画館であったように思える。


                  シネセゾン渋谷の入っているビルは、今ではユニクロが入っている。

                  僕がよく通っていた頃には、大好きなラーメン屋「味源」があった

                  (正確には吉祥寺の味源が好きなのだが)


                  映画を体験するということの善し悪しは、8割方映画館で決まると思う。

                  そういう意味で良い体験を与えてくれる映画館がまた一つ無くなることに、

                  ただただ寂しい思いが募るばかりだ。

                  阪神・淡路大震災15年特集ドラマ「その街のこども」に関して

                  2010.01.24 Sunday

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                    その街のこども

                    http://www.nhk.or.jp/hisaito/sonomachi/


                    NHKにて、1/17に放送した「その街のこども」を観た。脚本が渡辺あや、音楽が大友良英という魅力的なラインナップが直接の動機だ。


                     実際にそうだったらしいのだが、森山未来と佐藤江梨子(以下サトエリ)の役柄は、それぞれ小学四年生と中学一年生の時に震災を経験している25歳と28歳の男女だ。十数年ぶりに訪れた故郷の神戸で、偶然出会った二人の一夜が描かれたドラマである。


                     サトエリ演じる女性は、震災で親友の女の子を亡くしている。

                     また、森山演じる男性は、建設業を営んでいた父親が、震災に乗じて代金を10倍にふっかけて大儲けし、会社が大きくなり東京に出てきた。父親が、困っている人達の足元を見て、ある意味あこぎな商売をしたことで、地元での評判が悪くなり、その子供であった森山も学校の友達から無視されるようになったというような心の傷を抱えていた。

                     少年野球の試合で、サヨナラホームランを打ったのにもかかわらず、監督、コーチも含めて誰からも祝福されなかったと語るエピソードは胸を打つものがあった。


                     内容が非常に良いドラマだったのだが、僕が魅力を感じたのは、それよりもドラマの根本を貫くスタイルの方だった。

                    このドラマは、言ってしまえば二人の男女が深夜の神戸の街を歩きながら、ただただ対話、時には独白をするだけのドラマなのだ。

                     想起されるのは、リチャード・リンクレイターの「恋人までの距離(ディスタンス)」「ビフォア・サンセット」の二作だ。これらの映画も、主演のイーサン・ホークと、ジュリー・デルピーが、東欧の街とパリをただ歩きながらとりとめも無く話すだけの映画である。


                     僕はこういうドラマのスタイルが好きなのだろう。ただ二人の人間が話をするだけ。街を歩き回るというのが一つのポイントではあるだろうが、結局わかりやすいような大きなドラマは無い。登場人物達が安易に日常から逸脱することも無い、そういうドラマが好きだったのだということに気づいたのだ。


                     人が美しい思い出として記憶していることとはどんなものがあるだろう?家族と旅行に行ったことだろうか?修学旅行だろうか?甲子園出場を決めたことだろうか?大学のサークル仲間と飲み明かしたことだろうか?海外を旅して回ったことだろうか?バンドを組んで学園祭でライブをしたことだろうか?

                     いや、それはそれで美しい思い出かも知れないが、本当はそうではないだろう。集団やグループで何かをした、成し遂げたということよりも、最後に残るものは、「誰かと二人でいた」ということなのでは無いだろうか。


                     僕が思い出すのは、誰かと二人で話をしたこと、それだけなのだ。家族親族、男友達、女友達、恋人、苦手だった人、嫌いな人、たまたま知り合っただけの人、名前すら知らぬ人、想いの届かなかった人、そうした人達と、嘘も真実もごちゃ混ぜになったとりとめも無い会話を繰り返したこと、言葉を探しながら話を続けたこと、それらが時にぼんやりと、時に鮮明に思い出されるのである。


                     集団で行動したことは、自分が忘れても誰かが憶えている。しかし、二人だけで過ごした時間は、その二人だけしか知り得ない。他の誰にも知り得ない。だから人は忘れないのかも知れない。当事者の二人が忘れてしまったら、その時点でその時間はこの世に存在しなかったことになる。そういう儚さが「誰かと二人でいる」ということには常に隣り合わせで存在する。


                     このドラマにも、リンクレイターの映画にも、そういった儚さがずっと付きまとっていた。だから、僕はこのドラマのスタイルに魅力を感じたのだ。


                     ドラマを観ながら、映像で描くフィクション(映画・ドラマ)と文字で描くフィクション(小説)で描くことのできることについて考えた。

                     映像表現は、徹底的に視聴者の記憶を呼び覚ますものを描く以外に無いと思う。既視感、ノスタルジア、そういったものは映像ならでは強みだ。震災を経験しなくとも、年齢、職業が異なろうとも、サトエリと森山の散歩と対話は僕の記憶を刺激した。誰も観たことも無いようなことを映像で表現することはできないし、する必要も無いのだと思う。

                     比べて、文字表現、すなわち小説は常に誰も見たことも無いような世界を表現するべきだし、それしかできないのだろう。いくら文字で表現をしつくしても、そこに描かれるものは、どこにも無い街のどこにもいない人々だ。映像が後ろを向いているのに対して、文学は前を向いていると言い換えても良いのかも知れない。そして、どちらが優れているということも無い。どちらも存在していてほしいと思う。


                     優れた映像フィクションを観ることで、僕は既視感を憶えつつも目の前の美しい映像と僕の何てことの無い記憶が混じり合い、僕の記憶が緩やかに書き換えられていく。そうやって「美しい思いで」は作られ、輝きを増していく。

                     優れた文学を読むことで、僕は日常を逸脱し、知り得ることの無い世界を知ることができる。


                     こういったものに興味が無い、触れることも無いという人も多いだろう。そうした人達はどうやって、思い出を美しく変えているのだろう?どうやって日常を抜け出しているのだろう?時にもの凄く現実的な人はいるが、それはそれである意味「強さ」を持ち合わせているのだと僕は感じている。


                    クリント・イーストウッド『チェンジリング』に関して

                    2009.02.22 Sunday

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                      前回の記事で、ナショナリスト的発言(笑)がありましたが、この映画を観たらそんな浅はかな考えは簡単に吹っ飛んでしまいました。

                      友人とも話したのですが、日本で映画を作ろうって人達はこの映画を観てもまだそんなこと言えるのかということ。きっとアメリカ映画との距離の大きさに絶望してきっとやめてしまうだろうと。

                      映画のあまりにも完璧な凄みにグウの音も出ないとはまさにこのことで、2時間20分もあるのに全く眠くもなりませんでした。アンジェリーナ・ジョリーが、ジョン・マルコヴィッチがこんなに良い役者だったとはと改めて思い知らされました。

                      行方不明になった子供を探すために戦う母親の物語(実話ですが)なのですが、子を持つ親の立場の人のみならず、子のいない独身の僕でも感情移入せずにはいられない素晴らしい脚本。最初の30分くらいで完全に打ちのめされるような濃密な映画の時間がこの映画にはありました。

                      特に最初の10分足らずで、母と子の関係を完璧に描いているからこそ、その後行方不明になった子供が一体どうなってしまったかということに対しての興味が観ている側にも持続させる根拠となっていると思います。

                      そして、最後の方のあのシーンのあの子供の一言で涙しない人はいないと思います。

                      甘さや妥協の一切無い強烈なパワーと緊張感を放っていました。これがアメリカ映画の底力なんだなあ。『おくりびと』では到底敵いっこ無いでしょう(観てませんが)。

                      今年これを超える映画があるとしたら、イーストウッドの次回作『グラン・トリノ』以外に無いのではないかと思います。

                      外人はこんな凄いものを作ってしまうのだから、外国メディアに騒がれたらもう全面降伏するしかないですね、中川さん。へべれけ会見のあと行ったバチカン博物館で立ち入り禁止区域に入ってしまい警報が鳴ったとか、触っちゃダメな石像に触りまくったとか、酔っぱらい行動がどんどん明るみになってしまい、もうどうしようも無いことになってるようです(笑)。まずは治療に専念した方が良いと思うな。

                      『2008年私的ベスト(洋画編)に関して』

                      2008.12.29 Monday

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                        映画部門は洋画、邦画、アニメの3つに分けてみた。洋画に関しては西洋と東洋で分けてみようかと思ったが、今年はそこまでアジア映画を見てないのでやめといた。

                        洋画は「テラビシアにかける橋」

                        テラビシアにかける橋 [DVD]

                        年初の作品だけど、宣伝のわりにびっくりするほど人気が無くひっそりと終わってしまった作品だけど、超が付く名作。いじめられっこの少年が少女に出会って・・・・という典型的なBOY MEETS GIRLもの。藤子F不二雄マインドを存分に感じることができる。音楽の授業シーンでちょっとハジけた女性教師が子供達にsmash mouthの「Why can't we be friends」を合唱させるシーンはちょっと泣いた。この曲ってこんな良い曲だったんだな。

                        Why Can't We Be Friends - Bridge To Terabithia

                        僕は家計簿だけでなく、見た映画のリストもつけているので、他に今年観たものを見返していたら、いくつか良いのがあったので挙げてみると、
                        ウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリー・ナイツ」、ガス・ヴァン・サント「パラノイド・パーク」、クリストファー・ノーラン「ダークナイト」らへんは文句無く面白かったなあ。ラズベリーのタルトを食すたびに「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を思い出すし、「パラノイド・パーク」は2回観に行った。「ダークナイト」はお正月に家で映画でも観ようと思ってる人全てに進めたいくらい素晴らしいエンターテイメント(人死にまくるけどね)。

                        あと吉祥寺バウスシアターでの爆音上映はやはり良かった。中でもオリヴィエ・アサイヤスを何本か見れたのが良かったなあ。「レディ・アサシン」「冷たい水」「clean」。「clean」が一番良かった。レンタル店とかに出てるのだろうか。

                        リチャード・リンクレイター「ファーストフードネーション」でのアヴリル・ラヴィーンが異常に可愛かった。ポップスターとはここまで輝かしいオーラを放っているのだという見本のようなもの。

                        きっと残念な作品なのだろうと思ってみたら、想像通りの残念さだった、ロバート・レッドフォード「大いなる陰謀」。真面目な人による真面目な人のための真面目な映画。オバマが大統領になってしまった今現在観なおしたらどう感じるのだろうか。トム・クルーズを堪能したけりゃこの映画だと思う。

                        ランボー、インディ・ジョーンズと言った久々の続編ものは、ランボーはアリで、インディはもう結構という感じかと。

                        「ライラの冒険」はあのしつこいくらいの宣伝の割りに大コケしたとの話。ちゃんと続編は上映してくれるのだろうか。劇中も大風呂敷を広げていたけど・・・。


                        何にしろ、宣伝文句や予告編と実際の内容の乖離が大きいなあと感じることが2008年は多かった気がする。多分必死なんだろうということも察することができるけど、こういうこと続けてるとどんどん自分達の首を絞めているということは分かっているんだろうか。

                        次は邦画編。